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ふしぎ

白い船は羊毛を運んだ

第 55 話 / 全 118 話 2026.10.01 17:08 配信 約4分で読める
白い船は羊毛を運んだ

集落の灯が七つに減った夜、離島診療所の時計だけが三十分遅れていた。受付の私は、未納の診察券を束ねながら、海の外で誰かがこの島を名簿ごと書き換えている気配を感じていた。それは悪意ではなく、配慮の形をしていた。

フェリーは週三になった。医薬品の荷物は時々、患者より先に本土へ戻され、戻ってくる頃には使用期限だけが若返っていた。院長は黙って聴診器の胸片を拭く。彼もまた、この島を綺麗に見捨てる方法を探しているように見えた。私は探さない。私は見つけたものを小さく貼り合わせる係だ。

白い船は潮の引いた夕刻に来た。赤い靴を履いた笑い顔の旗を掲げ、側面には羊毛を洗う桶が並んでいた。乗組員は皆、島訛りで挨拶した。出て行った若者たちだった。彼らは十年ぶりに戻り、皺も痣もない手で高齢者の肩に毛布をかけ、お帰り、と言った。まるで出ていったのはこちらで、滞在したのは本土であるかのように。

無料健診の看板は、診療所の雨染みを丁度隠した。受付の私に彼らは名簿を差し出す。紙質は新しい。欄は古い。死亡済みの印、転出済みの印、未届けの出生、十年前に沈んだ漁船の船員名。島の未来が全部、既に記入されていた。私は黙って訂正印を押した。押さなければ、明日が始まらない気がしたからだ。

検査室では静脈の色が薄かった。老人たちは痛みを我慢しないで、痛みのことを昔の歌のように口ずさんだ。血糖は穏やか、血圧は穏やか、不安だけが基準値を割り続けた。機械は何も警告しなかった。だが私の手元の紙カルテでは、帰宅したはずの者たちが、まだ本土の待合室に座っていることになっていた。

白い船は羊毛を運んだ 挿絵

南端のばあさんだけが、白いカーディガンを脱いだ。内側は羊の毛ではなく、細かい歯車ではなく、ただ温かい闇だった。彼女は片道切符を返し、行先が明日に印刷されていることを指さした。私は苦笑した。島では明日は潮次第だ。船が来るとは限らない。来ないと決まっている日もある。

夜になると、白い船は湾の外に錨を下ろした。灯りを消さず、にぎやかなまま沈黙していた。赤い靴の笑い顔は波に割れ、何度も直った。本土の広告によくいるあの人物に似ていた。だからだろうか、空腹を覚える者は一人もいなかった。誰もが、十分に愛されていると教えられていた。愛が十分なら、喉は渇かないはずだ。

私は診療所の裏で拾ったラジオを点けた。雑音の下で、島の住民数がゼロと告げた。同時に玄関の鍵が内側から開いた。開いていない。開いたことになった。紙の名簿では全員が搬送済み、実際のベッドでは全員が眠り、海では全員が未だこの場所にいる。三つの事実が優しく重なり、どれも嘘ではなかった。

野心というほど派手なものではない。私はただ、このまま世界が綺麗に間違い続ければいいと思った。正しさはいつも、島の影に硬い爪を立てる。間違いは毛布をかけ、湯を運び、名前を覚えようとする。だから私は黙って不整合を集めた。瓶の中の海、切符の日付、時計の三十分。小さな裂け目を、舌で舐めてしまわないためだ。

明け方前、帰ったはずの老人たちが浜に並んでいた。海ではなく島の内側を向いていた。彼らの白い背中は霧に解け、羊毛のように光った。世界の終わりが来るとしたら、私はこういう静けさを想像していた。爆音でも炎でもなく、記録が少しずつ体温を持ち、人々が帰る場所を間違える光景。

白い船は満潮を待っていた。受付の私は名簿を抱え、開かない扉の前に立った。島の時計が急に正しい時刻を指し始めた。それは朝ではなく、誰かの手違いだった。船が汽笛を鳴らす前に、私は問いだけを用意していた。明日、この島を救うためには、私は扉を開けるべきか。それとも、やさしい狼の名簿に、私の名前を書き加えるべきか。

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