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冬の海のキャストオフ

第 54 話 / 全 62 話 2026.10.01 15:10 配信 毎日ショートショート編集部

彼の仕事は、冬の海の家を、冬であることに気づかせないことだった。シャッターを下ろし、落書きを塗りつぶし、錆の跡を企業指定の青で上塗りする。正確には消すのではなく、隠す。夏が来れば、誰もこの三か月の空白に気づかない。海の家は、夏にしか生まれず、冬にしか死なない、奇妙な生き物だ。

この町には、同じチェーンの海の家が十四軒ある。同じ看板、同じメニュー、同じ値段のかき氷。彼が冬を預かる「サニーデイ・ショア」もその一軒で、本部の指示どおり十一月に姿を消し、四月に戻ってくる。千円のかき氷を売るために海を丸ごと借りて、冬には放棄する。資本主義とはそういう営みだと、彼は思っている。借りて、榨って、逃げる。その繰り返しを、終わりのない季節と呼ぶ。

彼が二十歳の頃、この壁には大きな太陽の壁画があった。先代の番人が描き、彼が筆を運んだ。今はない。企業の青の下にある。塗りつぶせと命じられたのは、ちょうど十年前の彼自身だった。青を塗りながら、彼は怒りより先に、乾いた諦めを覚えた。世界は上書きされるためにあるのだ、と。塗る側になるか、塗られる側になるか。二者択一の人生だった。

朝、砂浜の清掃をしていると、砂の中からプラスチックの人形が出てきた。仮面の英雄で、背中のボタンを押すと装甲が弾け飛ぶ仕組みになっている。キャストオフ、と箱には書いてあった。捨てるべきか迷ったが、ポケットに入れた。子供の頃、彼は天の道を行くと信じていた。正しさが必ず勝つと信じていた。いつから、信じるという行為自体を放棄したのだろう。

昼、防波堤の上でスマホのニュースを眺めた。年を重ねたテニスの選手が、老いと世界の序列に抗って、まだコートに立っている。一人でネットの向こうに立つ男。彼はあれほどの年月を、世界と一対一で向き合うことに費やしてきた。近くのグラウンドでは、まだ名前のない少年が素振りを繰り返していた。誰もが、古い殻の中で一生懸命に動いている。殻を疑問視する者は、いない。

冬の海のキャストオフ 挿絵

その夜、自動販売機が三回、同じ間隔で点滅した。故障ではない。売上データを本部へ送る機械で、冬季中は電源が落とされているはずだった。彼は点滅を数えた。三・三・三。何かが、打電しているようだった。本部に連絡した。受付の機械声が「冬季中の点滅は正常です」と返した。正常の定義は、いつから、誰が、決めたのだろう。

翌朝、看板の文字が一つ落ちていた。「サニーデイ・ショア」の「シ」が、ひとかけらの汚れもつけずに砂の上に横たわっていた。拾い上げると、プラスチックはわずかに温かかった。海からの照り返しのせいだろう。彼はそう結論づけた。結論づけることで、彼はいつも、世界をかろうじて説明できていた。

夜明け、海は凪いでいた。凪いでいるというより、張りつめていた。水面に薄い、半透明の膜のようなものが張り、日の出とともに、音もなくひび割れ始めた。氷が割れる音ではなかった。何かが、とてつもなく大きな古い殻を脱ぎ捨てる音だった。ひびは砂浜まで伸び、彼の足元で止まった。膜の下から、見たことのない色が滲んでいた。青でも緑でもない。名づけられたことのない色だ。

彼はポケットから人形を取り出した。装甲を跳ね飛ばすボタンに、指をかけた。世界が脱皮を始めるなら、この町はどうなる。十四軒の海の家はどうなる。夏にだけ生まれて冬にだけ死ぬ営みは、殻の下に残されるのか。あるいは、殻ごと脱ぎ捨てられるのか。本部に連絡すべきか。シャッターを上げて、誰かにこの色を見せるべきか。

彼は立ったまま、動かなかった。傍観者は傍観者のままだ。それが彼の抵抗であり、怠惰であり、二十年かけて完成させた生き方だった。膜の割れ目から、名もなき色が少しずつ滲み広がり、海を、砂を、見慣れた世界の輪郭を、静かに溶かしていく。夏の客は、まだこの色に名前をつけるのだろうか。それとも、名前をつける前に、世界はもう一つの殻を脱ぐのか。

彼は鍵を握りしめたまま、空に問うた。次に脱皮するのは、海か。それとも。

夜
毎日ショートショート編集部

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