桜の下、世界の流れが止まる

午前二時、貨物駅の信号扱い所で、彼は聴いていた。延長二十六回を超えた野球中継は、もう実況というより誰かの呟きだった。画面のないラジオが告げる。フルカウント。二死満塁。盗塁の気配。彼はレバーを握らず、ぼんやりと言った。「まだやっているのか」
この駅には、彼しかいない。厳密には、あと三ヶ月で、彼すらいなくなる。完全自動化の設備が入り、信号も入換も機械が握る。人間の出勤は、機械が間違えたときのための飾りだと、担当者は申し訳なさそうに説明した。間違える機械より、間違えてもいい人間のほうが安い時代がずっと続いてきたのに、と彼は思ったが、口には出さなかった。
貨物駅は眠らない。資本の静脈は夜にこそ脈打つ。誰が頼んだのか分からないモノが、誰が受け取るのか分からない街へ、正確な時刻で流れていく。コンテナは美しい。四角く、均質で、鍵がかかっていて、中身を知る者はいない。彼はこの十年、開かれたコンテナを一度も見ていない。この国が本当に運んでいるものは、要らないものの総量なのではないか、と時々思う。
ホームの端には一本の桜がある。植えた者も不明で、毎年この時期、誰も見ていないのに満開になる。今夜も月明かりを受けて、花は線路の上に影を落としていた。桜の下に立つと、貨物列車の轟音さえ、しばらく遠くへ退く。開花とはそういうことだ、と彼は思う。見る者がいなくても、自分の時間で終わる準備をする。
そのとき、予定表にない列車が、深夜の貨物駅へ静かに滑り込んできた。
入換計画に載っていない。車番も形式も知らない。長い。あまりに長い。先頭から見えないほどの貨車が、一列に連なって、彼の信号機の前でぴたりと止まった。停車位置は完璧で、機械的な正確さを思わせたが、この駅の機械はまだ彼の手を離れていない。つまり、それは彼が動かしたわけでもない。
彼は外套を羽織り、外に出た。並ぶコンテナの一つだけ、側面の刻印が違った。「BLOSSOM」と、小さく彫られている。温度管理の表示は、植物輸送用のものだった。開かないコンテナの中で、何かが息をしている。彼は掌を鋼板に置いた。微かな、ほとんど錯覚と同じ温かさが、返ってきた気がした。

ラジオの実況が、急に小さくなった。
延長二十六回の夜、審判はボールを手に持ったまま動かない。打者は構えたまま、投手はセットしたまま、満員のはずの球場の歓声だけが、時を切らした布のように垂れ下がっている。同じことが、この駅でも起きていた。信号機は全部、進行を示したまま、点滅ひとつしなかった。隣線で待機していたはずの定期貨物は、汽笛も上げずに停まった。風が止んだ。桜の花びらが、落ちるのに時間をかけて、ゆっくりと線路へ届いた。
十数秒。あるいはそれより少し。世界の流れが、息を呑んだ時間があった。
それから何事もなかったかのように、ラジオの実況は「ボールを投げた」と叫び、定期貨物は発車し、無許可の長い列車は着いた方向へ、音もなく戻っていった。彼は信号扱い所に戻り、帳簿を開いた。記録するべき事象があった。だがペン先は動かなかった。自動化された未来の記録装置は、こんな十数秒を、何として保存するだろう。ノイズとして捨てるだろう。それが正しい処理なのかもしれない。
翌日から、彼は辞職願を書かなかった。三ヶ月後にもし機械がこの駅を握ったとして、その機械に同じ十数秒を渡す義務があると、彼は思い始めていた。貨物が止まる理由を、機械は一生知ることがない。桜が見る者なしに咲くように、止まることもまた、見届ける者なしには成立しないのではないか。
その夜から、彼は仕事中にホームの桜へ目をやるようになった。満開はもう過ぎ、花は散り始めていた。開かないコンテナは引き続き流れていく。けれど、彼はもうそれを資本の血の流れとは呼ばなかった。何かが中で温かくなり始めている。世界各地の開かない箱の中で、順番に、芽吹きの準備をしている何かが。
今夜も延長戦は終わらず、フルカウントの呟きだけが貨物駅に響いている。彼はレバーに手を置いた。まだ彼の信号は、彼のものだった。もし世界の流れが再び息を呑むとき、それを止めるべきか、走らせるべきか。花は知っている。人間は、まだ知らない。