お手洗いの品格

毎日ショートショート

仕事帰りの駅前は、いつも通りの喧騒に包まれていた。

部長Aは、疲れ切った顔で、隣を歩く部下Bに指示を飛ばす。

「明日の資料、部長会までに仕上げておけよ。まったく、若い者は気が利かんな。」

部下Bは何も言わず、ただうなずいた。

「そういえば、少しトイレに寄りたい。あそこの公衆トイレは綺麗だと評判だったな。」

 

二人は駅の片隅にある、近代的なデザインの公衆トイレへと向かった。

内部は清潔で、最新式の機器が並んでいる。

部長Aは当然のように奥の個室へ。部下Bは手前の個室を選んだ。

 

個室の中には、通常のボタンの他に、小さな液晶パネルが設置されていた。

『ご利用状況を測定中……』

部長Aはそんな表示に気づきもせず、いつもの調子で用を足した。

彼は急いでおり、手を洗うのもそこそこに、すぐに個室を出た。

 

数分後、部下Bが個室から出てきた。

その顔には、どこか落ち着かない、だが確かな自信のようなものが浮かんでいた。

部長Aは苛立ちを隠せない様子で言った。

「おい、遅いぞ。早く帰りたいんだ。ぼやぼやするな。」

すると部下Bは、にこりともせず、部長Aを見上げた。

その視線は、これまでの従順なそれとは全く違っていた。

 

「部長、いえ、Aさん。」

部下Bの声が、静かなトイレに響いた。

「私は先ほど、新たな『ランク』を授与されました。」

部長Aは目を丸くした。

「ランク?何の冗談だ、B。」

「冗談ではありません。このトイレのシステムは、使用者の『公衆衛生への貢献度』を数値化し、新たな社会階層を決定するのです。」

 

部下Bは続けた。

「私は『特級使用者』に認定されました。あなたは……『一般利用者』です。」

部下Bは、部長Aの肩をポンと叩いた。

その仕草は、完全に上司が部下にするものだった。

 

部長Aは反論しようとしたが、なぜか声が出ない。

まるで喉の奥に、見えない栓がされているかのようだ。

部下Bの言葉は、まるで絶対的な真実として彼の脳に刻み込まれる。

 

「さあ、Aさん。私のカバンを持ってください。重いので。」

部下Bが顎で指示する。

部長Aの体は、意思とは無関係に動いた。

彼は素直に部下Bのカバンを手に取った。

 

二人がトイレを出ると、夕闇に包まれた駅前は、以前と何も変わらない。

しかし、部長Aの心の中では、世界の構造が完全にひっくり返っていた。

「今夜は私の行きつけのバーでご馳走しますよ、Aさん。もちろん、あなたは奢りです。」

部下Bは満足げに笑った。

部長Aは、反射的に「かしこまりました」と答えていた。

そして、彼の脳裏には、トイレの液晶パネルの文字が浮かび上がっていた。

『ご使用ありがとうございました。あなたの新たな階層が社会全体に反映されました。』

 

部下Bが駅の改札へと向かいながら、ふと携帯を取り出した。

「あ、もしもし?はい、昇進しました。ええ、公衆トイレで。」

彼は、にやにやと笑いながら話している。

部長Aは、部下Bの背中を見つめながら、自分がなぜあのトイレで手を洗うのを怠ったのか、後悔していた。

彼の新しい「階層」は、公衆トイレの利用状況によって、すでに社会全体に反映されていたのだ。

明日の部長会で、彼は一体どのような立場になっているのだろうか。

部長Aは、かつての部下Bのように、うつむき加減で彼の後を追った。

それは、この街の至る所に設置された、無数の「階層決定トイレ」が引き起こした、小さな、だが確実な革命の始まりに過ぎなかった。

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