朝霧が立ち込める中、ヤマモト氏はタナカ氏を伴い、町の外れへと向かった。
目的は、古びた井戸の清掃である。
「清流の井戸、と呼ばれてるそうですよ」とタナカ氏が言った。
「昔は町の重要な水源だったが、今はもう誰も使わない。だが、水だけは常に澄んでいる」とヤマモト氏は付け加えた。
確かに、井戸の底には透き通った水が満ちていた。
どんなに汲み上げても、翌朝には元の水位に戻る、不思議な井戸だと聞いている。
二人は清掃道具を準備し、作業に取りかかった。
タナカ氏が井戸の底に降り、堆積した泥を掻き出し始めた。
数時間後、彼は驚いた声を上げた。
「ヤマモトさん、見てくださいこれ」
ヤマモト氏が覗き込むと、井戸の岩盤に奇妙な線が刻まれているのが見えた。
それは、誰かの名前のように思えた。
「ミウラ……最近、町に引っ越してきた男の名前だな」ヤマモト氏は首を傾げた。
泥の中から出てきたにしては、あまりにも鮮明だった。
数日後、二人は再び井戸を訪れた。
新しい名前が追加されていた。「フジタ」。
「こんなものは初めてだ」ヤマモト氏の声に、かすかな動揺が混じっていた。
その後も、井戸の底には次々と新しい名前が浮かび上がった。
清掃するほどに、名前は増え、時には過去の住人のものらしき名前も現れた。
二人は試しにその名前を削り取ろうとしたが、どんなに硬いブラシで擦っても、翌朝には元通り、鮮やかに刻み込まれていた。
その頃から、町で奇妙な出来事が起こり始めた。
井戸に名前が刻まれた人々が、一人、また一人と、何の痕跡も残さずに姿を消していくのだ。
警察は失踪事件として捜査したが、結局、何の手がかりも得られなかった。
しかし、町の人々は、井戸と失踪事件の関連性を誰も口にしない。いや、認識しないかのように振る舞った。
ヤマモト氏とタナカ氏は、不安を募らせた。
二人は町の長老、サトウ氏の元を訪ねた。
「この井戸は古くから、この町の記憶を映し出すと言われておる」サトウ氏は皺深い顔で言った。
「人の営みを、存在の証を、全て記録しているのかもしれん」
彼の言葉は、二人の恐怖を一層掻き立てた。
それは単なる記録ではない。存在するものを確定させ、そして消し去る装置なのではないか。
ある朝、二人はいつものように井戸を覗き込んだ。
井戸の底には、すでにタナカ氏の名前が、真新しい文字で刻まれていた。
タナカ氏は震えながらヤマモト氏の顔を見上げた。
ヤマモト氏は何も言わず、ただ井戸の底を見つめ続けた。
澄んだ水面が静かに揺らめき、新たな名前が浮かび上がる。
それは、ヤマモト氏自身の名だった。
そして、井戸は今日も清らかな水をたたえている。二人の存在を、確かに記録したかのように。
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