K氏は古い地図を広げた。
そこには「残照の井戸」と記されていた。
街の片隅にある、忘れ去られたような公園の奥。
夕暮れ時、西日を浴びた時だけ、その井戸は願いを叶えるという。
馬鹿げた話だ、とK氏は思った。
だが、近頃のK氏の生活は、少々退屈だった。
ある日の夕方、K氏はその公園へ足を運んだ。
錆びついた鉄柵の向こうに、古びた石造りの井戸が見えた。
太陽が地平線に沈みかける。
最後の光が井戸の底に届き、水面が琥珀色に輝き始めた。
K氏は好奇心に駆られ、井戸の縁に身を乗り出した。
そして、小さくつぶやいた。
「明日の朝食は、パンと卵と、それに最高のコーヒーが飲みたい」
声は吸い込まれるように消えた。
何も起こらなかった。
K氏は肩をすくめ、家路についた。
翌朝、K氏の食卓には、見慣れないパンと、完璧に半熟の卵、そして芳醇な香りのコーヒーが並んでいた。
隣家のドアが慌ただしく開く音がした。
「泥棒だ!朝食が消えている!」
K氏はコーヒーカップをゆっくりと置いた。
井戸の力を、K氏は認識した。
それは奇跡ではなく、ただの「移動」あるいは「変換」だった。
しかし、願いは叶う。
K氏は再び井戸を訪れた。
日が傾き、井戸は再び輝きを放つ。
「もっと広い家が欲しい」
K氏がそう願うと、彼の住むアパートの壁が、隣の棟へとゆっくりと歪み始めた。
住民たちの悲鳴が聞こえた。
K氏は慌ててその場を後にした。
願いは叶うが、常にどこかにしわ寄せがいく。
彼は井戸の「実験性」を理解した。
まるで、世界という巨大な装置の一部を勝手に動かしているような感覚だった。
K氏の生活は便利になった。
欲しいものは手に入った。
だが、そのたびに、どこかで誰かが困る。
街のあちこちで、奇妙なニュースが報じられるようになった。
「消失した犬の散歩リードが、突如空から降ってきて女性の頭を直撃」
「人気のレストランのメニューから『肉』が突然消滅。植物性食品のみに」
K氏の心には、徐々に疲労が蓄積していった。
願いが叶うたびに、微かな罪悪感と、予測不能な混乱への不安が募る。
もはや、欲しいものは何もなかった。
彼は再び、あの井戸の前に立った。
夕日が最後の力を振り絞るように井戸を照らす。
K氏は深呼吸をし、ゆっくりと告げた。
「もう、何も困りたくない」
井戸の水面は静かに波打ち、輝きが消えた。
その日を境に、K氏の人生からあらゆる「困りごと」が消えた。
朝食が美味しくなくても困らない。
昇進しなくても困らない。
隣人が怒鳴っていても、困らない。
彼は常に平穏だった。
だが、何かを「嬉しい」と感じることも、「悲しい」と感じることも、「面白い」と感じることも、二度となくなった。
K氏の顔には、何の表情も浮かばなかった。
彼はただ、呼吸をし、食事をとり、規則正しく生きる、静かなる存在となった。
困ることは、何もなかった。
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