ミドリは昼食の準備で忙殺されていた。
シンクからは水が音を立て、換気扇は唸り、食器はぶつかり合う。
食卓では夫のタカシが新聞を広げ、独り言のようにニュースを読み上げている。
その騒がしさが、ミドリの頭痛をさらに悪化させた。
「ああ、静かな時間がほしい」
ミドリは心の中でつぶやいた。
その瞬間、キッチンの騒音がぴたりと止まった。
水は蛇口から流れ落ちたまま、空中で固まっている。
換気扇のファンは、回る途中で停止していた。
タカシの口は半開きになり、その言葉は途中で途切れていた。
ミドリは動けた。
困惑したが、すぐに状況を理解した。
このキッチンだけ、時間が止まったのだ。
リビングからはテレビの音が聞こえる。
外からは車の走行音もする。
他の場所はすべて、普段通りに流れていた。
最初は恐怖を感じた。
しかし、やがて奇妙な清々しさが訪れた。
夫の独り言も、子供たちの騒ぎ声も、食器のぶつかる音もない。
完全な静寂。
ミドリは止まったタカシの顔を覗き込んだ。
彼の目は一点を見つめ、瞬きすらせずに固まっている。
皿にはまだ湯気が立つ味噌汁が置かれ、箸が宙に浮いたままだ。
ミドリはゆっくりと料理の続きに取り掛かった。
焦る必要はなかった。
止まった時間の中では、いくらでも丁寧に野菜を切れる。
普段なら面倒に感じる下ごしらえも、今は苦にならない。
誰にも文句を言われず、誰にも急かされない。
それは、ある種の理想的な空間だった。
ミドリは普段試すことのできない、手の込んだレシピに挑戦した。
盛り付けも完璧に仕上げる。
時間という概念が消え去ったキッチンで、彼女は創造的な喜びを感じていた。
陽が傾き、部屋がオレンジ色に染まっていく。
しかし、キッチンは相変わらず昼のままだ。
タカシはまだ半開きの口で、昼食を待つ姿勢で固まっている。
ミドリはふと、このままずっとここにいるのかと考えた。
その時、タカシの口がごく僅かに動いた。
そして、聞き取れないほどの小さな声を発した。
「…まだか?」
ミドリは凍り付いた。
止まっていたはずの時間が、ほんの一瞬、動いたように見えた。
しかし、すぐにまた静止した。
ミドリは悟った。
このキッチンは永遠に昼食時であり、タカシは永遠に昼食を待っている。
そして自分は、永遠にその昼食を作り続ける運命なのだと。
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