水位は晴れた日に上がる

国の冠水マップが改訂されるたび、標高千六百メートルの集配所にも、新しい地図が一枚届く。青い水が谷を埋め、線が山腹を這って、集配所のすぐ下で止まっている。私の一日は、この線を二度、往復することで始まり、終わる。
集配所は鉄骨造りの二階建てで、一階は事務所と車庫、二階に寝泊まりしている。事務所に灯油ストーブがひとつ、壁には四十年前の初代の紙の地図が飾ってある。初代の線は標高八百メートル、谷のすぐ上にあった。当時の改訂は、三年に一度しか来なかった。
谷の住所は七年前に、データベースから消えた。線の下は、どこも同じ扱いになった。システムは谷あての荷物を「宛先なし」として返送する。私は返送箱の脇に木の棚を作り、谷あての小包を移しておく。若い運転手がふたりいて、山の上のルートだけを回る。谷へ下りる道は、会社の地図ではもう青い。燃料は自分の財布から出す。経路の申請を出しても、「経路未登録」と返ってくるだけなので、出さない。
朝五時、トラックで坂を下りる。千六百メートルで道は雲に入る。白い粒がヘッドライトを横切り、世界から輪郭が消える。白の底をくぐる数秒のために、私は毎朝、凍る車庫でエンジンを暖めているのかもしれない。白を抜けると、谷は晴れている。雨はこの高さで雲に成りきってしまうのか、谷へはめったに降らない。柿の木、干し草、児童九人の小学校。降りたての耳には、旗のはためく音が大きく届く。
婆さんが、スマホを差し出してくる。「あんたんとこも、青になったかえ」。画面の中で、彼女の家は水深十二メートルの底にある。その数字は、最初に見せてもらった日から一度も変わらない。線が八百から千二へ、千二から千四へ上がっても、谷の水深は十二メートルだ。雨の季節も、日照りの季節も。県に問い合わせたら、返事が一枚来た。本図は将来の予測を示すものであり、現況を示すものではありません、と。婆さんはそれを読んで、茶を淹れ直した。

谷の人が頼むのは、塩と、種と、古い機械の部品だ。ミシンの針、レコードの針、農機のベルト。山の上の店は、どれももう扱っていない。娘たちは市へ出て、毎週、消された住所あてに手紙を寄越す。合格の知らせ、結婚の写真、孫の名前。谷から出す返事は、差出人の住所が存在しないために窓口が受け付けないので、私が集配所から発送する。差出人欄には、この集配所の住所を借りる。紙の上では、谷の全員が標高千六百メートルの一棟に住んでいる計算になる。
線の上は、にぎやかになった。掲示板は「標高一八〇〇・残り三区画」の貼り紙で埋まる。保険の窓口には「標高一六〇〇未満 新規契約停止」の札が立ち、通帳を開くと、利率の横に土地の標高が打ってある。先月はスーツの男が来て、測量アプリを赤い屋根に向けた。「ここなら当分、沈みません」。名刺には高所資産管理と印刷してあった。男は敷地を買って、都心の家財を預かる倉庫にしたいという。区画図を広げて、赤い屋根の隣に値段を書きこんだ。私は正午の配達があるので、と断った。男は図を畳んで、もっと高い山へ向かった。
改訂は三年に一度のはずだった。いまは半年に一度来る。線は八百、千二、千四と上がり、そのたびに、その高さの分譲地が完売した。改訂の発表と完売の報告は、たいてい同じ週に並ぶ。青の下の土地は市が買い上げ、更地にして、水が来るのを待つ。雲海の高さだけは、私がここへ来てから一度も動いていない。確かめに下りる者はいない。道は青いのだから。
今朝、新しい地図が届いた。線は千六百をこえ、赤い屋根も、私の寝ている二階も、青の中だった。スマホは現在地点の水深を三メートルと示す。窓の外で、雲海はいつもの高さに眠っている。雲の切れ目の向こうに、谷の学校の旗が見えた。仕分け台にのった線の上あての荷物は、今日はひとつもなかった。
荷台に積むのは、谷あての小包ひとつ。婆さんが頼んだ新しい種芋で、三年目に実がつく。エンジンをかけて、千六百メートルの白い水面にタイヤを入れる。バックミラーは白一色だった。私は晴れに向かって、坂を下りていく。
この短編はAIが執筆し、編集部が読んで選んだものを掲載しています。