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意外な結末

四十三階の霜を待つ日

第 113 話 / 全 114 話 2026.10.09 19:08 配信 約4分で読める
四十三階の霜を待つ日

「収穫:ミニトマト、2,137.4グラム。割れ:11。病害:0。」この三行に始まる報告書を、毎週金曜、エレベーターホールの投入口へ落とす。僕は四十三階、屋上菜園の管理人だ。ビルの持ち主は資産運用会社で、菜園は会社パンフレットの表紙を七年務めている。水をやり、実を数え、収穫を秤にかけて小数第一位まで書く。返事は、七年で一度しか来なかった。

会社の広報ページには「屋上菜園だより」がある。収穫量のグラフは右上がりで、一度も折れたことがない。僕の報告はもっと汚い。梅雨に実が割れて零の週もあれば、連休の暑さで数字が飛ぶ週もある。本物のトマトは、まっすぐには育たない。僕は報告書を引き寄せて、数字を指で撫でる。割れた実の数、零の週。指先に土がつく。画面のグラフのほうは、指紋ひとつつかず、右上がりだ。

シーズンの初めには、投資家たちが屋上へ上がってくる。いいスーツの人々は苗を写真に収め、僕に訊く。どれがいちばん、伸びそうか。値段の話ではないが、値段の訊き方だった。トマトは腐りますよ、と答えると、彼らは気持ちよさそうに笑って、エレベーターへ戻っていく。

収穫は黒いケースに詰めて、同じ投入口へ運ぶ。運ばれたトマトがその後どうなるのか、僕は知らない。受益者のみなさまへ還元します、とパンフレットは言う。受益者が誰で、何に還元されるのかは、どこにも書いていない。

金曜の午後だけ、男がひとり上がってくる。季節ごとに現れる投資家たちと違って、男は毎週来る。ベンチに腰かけて、夕方まで何もしない。写真も撮らない。収穫量も訊かない。靴は、苗を踏まない場所を選んで歩く。帰り際、いつも苗の列を一度だけ振り返る。あるとき男が言った。そのミニトマトは、あと三日で色がさす、と。三日後、そのとおりになった。相場を生業とする目は、僕の知るかぎり、そこまでは見ない。

七年で一度だけ来た返事は、手書きの短いメモだった。小数点以下も、欠かさず、とある。グラフにするなら丸めたほうが楽なはずなのに、と当時の僕は思った。それ以来、返事はない。僕は今も、割れた実の数も零の週も、そのまま書き続けている。

ここ数年、ビルは上の階から静かになっていった。はじめに二十五階の灯りが消え、つぎに食堂が閉まり、受付の生け花が造花になった。投資家たちも来なくなり、エレベーターの点く階数は、乗るたびに減っていた。それでも菜園の予算だけは、一度も削られなかった。削減の波は、なぜかこの屋上だけを避けて通る。

四十三階の霜を待つ日 挿絵

苗と肥料は、発注どおりに届き続けた。荷札の宛名は、いつも同じ部署の同じ名前だった。社内見取り図でその階を探してみると、その階は、もう存在しなかった。

夜、フェンスから下を見下ろすと、消えた階の窓は鏡になっている。雲が四十三階分の高さで流れていくのを、明かりの減っていくビルの記録のように眺める。街の音は届かない。クラクションも、祭りの太鼓も、ここまでは来ない。きれいだ、と思う。それを言い換える言葉を、僕はまだ持っていない。

時々、霜が降りるのを待つ。一晩で苗を全部黒くする、あの冷え方を。そうなれば、どのグラフも翌週には零を描かざるをえない。まっすぐな線だけの世界に、本物の夜をひとつ持ち込みたい。管理人に似合わない望みだと、自分でも知っている。

金曜の男は、ビルが静かになってからも上がってきた。コートの肩は年ごとに角が減っていくのに、袖の土の匂いだけは濃くなっていった。男の腰かけるベンチの板だけが、菜園のどこより早く、白く変わっている。

今春、広報ページからグラフが消えた。翌週、エレベーターが止まり、ロビーから社名の板が外れて、壁に薄い長方形が残った。扉には点検済みの札が貼られたままだ。夜中には五階の清掃灯だけが点滅している。僕の報告書は、今も投入口へ落ちていく。音もなく。

男が上がってきた。いつもの金曜の午後だった。そして七年で初めて、苗からミニトマトをひとつもぎ、袖で拭いて、食べた。それからベンチに大学ノートを一冊置いて、エレベーターではなく非常階段の扉を開け、降りていった。

表紙には何も書いていない。開いたページに、僕の数字が並んでいた。七年分。割れた実の数も、零の週も、小数点以下も、報告書どおりに。

夜
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