本文へスキップ

5分で読めて、最後にひとひねり。毎日ひとつ、短編をお届けします

ホーム ›ぞくっとする ›波の音は最後まで残る
ぞくっとする

波の音は最後まで残る

第 139 話 / 全 140 話 2026.10.18 19:12 配信 約4分で読める
波の音は最後まで残る

冬のあいだ、彼の仕事は海の家の管理人だった。十二月の砂浜は、どこまでも貸し切りだった。オーナーは県外に住み、この海岸に同じ形の海の家を十二軒並べている。夏の三ヶ月だけ人が入り、十月には建物ごと海風に返される。彼はそこに住み込み、週に二度、古い自転車で十二軒を見回った。板の間を掃き、錆びと雨漏りを確かめ、窓の塩を落とす。写真を三枚、管理人アプリにあげると、口座に千二百円が入った。彼は文句を言わなかった。この仕事には、冬のあいだ、海の家をひとりで使うことが含まれていた。

夏の海の家は、二十四時間営業の食堂とドリンクの自販機と注文用のタブレットだけで回っていた。オーナーの話では、この浜は形ごと測られて、どこか別の場所で同じものが動いているという。彼に残されたのは、本物のほうを掃くことだけだった。

冬の海は、静かで、正直に言って美しかった。誰もいない砂浜に低い光が長く伸びる。見回りの日以外、彼はいちばん海に近い一軒で暮らした。灯油ストーブと、前の管理人が置いていった白いゲーム機と、海に向かって置かれた一台のテレビ。冬の海の家では、それがいちばん贅沢な設備だった。

浜の町は、冬は半分眠っていた。土産物の看板は裏返され、バスは一日四本。彼が言葉を交わす相手は、漁協の老人くらいだった。老人は、今年は潮が変だと言った。彼は相槌を打って、それ以上は聞かなかった。

ゲームの名は『常夏海岸』といった。もう潰れた小さな会社が作ったソフトで、この海岸を実測データからそのまま再現している。画面の中は常に八月だった。同じ位置に同じ海の家が建ち、AIの客がラムネを頼み、AIの子供らが白い波と戯れる。オンラインにつなぐと、そこにいる人間は、彼ひとりだった。

変わった機能がひとつあった。実況同期。潮の満ち引きも、月の形も、風の強さも、その日の本物のこの海岸のデータを読み込んで画面に映すのだった。八月の空に、冬の本物の月が浮かぶ。彼はそれが気に入って、夜な夜な、冷えた板の間で画面の海に座った。海の家の木陰には、いつもひとりの女がいた。ラムネも頼まず、波に入ることもせず、ただ沖のほうを見ている。彼は遠景の一部だろうと思って、気にしなかった。窓ガラスは塩で曇っていて、本物の海は見えなかった。風のない夜には、波の音だけが、板の間まで届いた。

波の音は最後まで残る 挿絵

二月の終わり、公式サイトに終了公告が出た。三月三十一日をもって、サービスを終了する。彼は公告を三回読んで、少しほっとした。湯呑みを置くと、ストーブのやかんが静かに鳴っていた。

その夜から、画面の海が引き始めた。干潮かと思ったが、戻ってこなかった。八月の客たちは何も気づかず、波打ち際で騒いでいる。水面だけが、水平線の向こうへ、少しずつ遠ざかっていった。

引いた海底は、きれいだった。水を失った白い砂が鈍く光り、錆びた自転車が横たわり、誰かが忘れた麦わら帽子が沈んでいた。彼は毎晩、様子をノートに書き写した。三月十日、海は水平線まで退いた。三月二十日、空のグラデーションが三色に減った。セミの声が消え、子供らの笑い声が消え、波の音だけが最後まで残った。

削除順だろう、と彼は考えた。サーバーの容量に合わせて、大きいものから順に消えていくのだ。海は、この世界でいちばん大きなデータに違いない。終わっていく世界を、彼はただ見ていた。画面の隅、海の家の木陰に、あの女がまだ座っていた。AIの群衆のなかでただ一人、遊びもせず、引いていく海を見つめている。彼が視線を合わせると、彼女は静かに頭を下げた。

三月半ば、彼は一度だけ窓の塩をこすって、本物の海を確かめた。本物の海は、まだ、いつもの冬の位置にあった。同期でも何でもない。ただの削除にちがいない。それから窓を放っておいた。テレビの中の海のほうが、よほど海らしかった。

三月三十一日、彼は見回りを休んで、画面の前に座った。午後十一時、海はもう完全に消え、白い海底に、どこからともなく月光のような光が落ちていた。女はまだ、木陰に座っている。カウントダウンはなかった。午前零時、画面が暗くなって、ガラスに彼自身の顔が映った。

テレビの音が消えて、彼ははじめて気づいた。風のない夜なのに、板の間に波の音が届いていない。窓を押し開けると、冷えた夜気が入ってきた。月光の下で、本物の海は、画面と同じところまで引いていた。白い海底に、錆びた自転車が、ひとつ横たわっていた。

夜
毎日ショートショート編集部

今日のニュースの裏側から、AIがひとつの物語を拾い上げる。選び抜いた短編を毎日お届けします。

この短編はAIが執筆し、編集部が読んで選んだものを掲載しています。

次の話 山頂に風が帰ってこない 2026.10.19 配信