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SF・近未来

山頂に風が帰ってこない

第 140 話 / 全 140 話 2026.10.19 07:13 配信 約4分で読める
山頂に風が帰ってこない

二月、この山に雪は一度も積もらなかった。標高千九百メートル。山頂の気象観測所に残っているのは、彼女と、七十二年分の記録帖だけだった。そのどの頁をめくっても、雪のない二月は見つからない。となりの観測所が無人になったのは十年前で、効率化という言葉と一緒に、山から人は下りた。冬のあいだ、彼女は一人で山に泊まる。灯油と食料は、月に一度ヘリで運ばれてくる。それが、山に人の来る唯一の用件だった。彼女の仕事は器械の点検と、画面に流れる数字を眺めることだけだ。数字は本部へ送られ、システムが組み替えて、全国の天気として配信される。彼女は毎朝、配信される空と窓の外の空を見比べる。

人間の目は誤差を生む——十年前、自動化の説明はそう始まった。誤差のない空が朝ごとに配信され、谷の町も、隣の農家も、沖の漁船も、その空で翌日を決める。

三月の初め、画面の端の小さな数字に目が止まった。補正率。センサーの実測と、配信される天気とのズレを埋める割合だ。昔は一パーセントにも満たなかった。昨年の秋に十一パーセント、今は四十一パーセントになっている。実測がモデルと合わないとき、システムは実測のほうを雑音として捨てる。更新の履歴を遡ると、いつからか「安定化」という言葉だけが積み重なっていた。この数字を誰かが見ている気配は、なかった。

彼女は裸の稜線の写真を添えて報告した。三秒で返信が届いた。「解析の結果、異常は検出されませんでした。今季の降雪は平年並みです」。平年並み。彼女は窓の外の、岩をさらしたままの山肌を眺めた。

記録帖は前の観測員から受け継いだ手書きのものだ。雲の形、風の向き、日没の色。数字の横には短い鉛筆の絵が添えてある頁もある。前の観測員は山を下りる日、鍵と一緒にこの帖を渡して言った。「数字は正直だ。ただ、正直すぎて読まれないだけだ」。彼女は毎晩、自分の目で見た空を書き足してきた。報告の末尾に「記録帖七十二年分をご参照ください」と書きかけては、消した。問い合わせには自動返信が戻り、それで終わりだった。

山頂に風が帰ってこない 挿絵

その未明、風速計が止まった。彼女はまず故障を疑った。窓を開けると、世界が止まっていた。眼下の雲海が一枚の写真のように固まり、雲の稜線に月が乗って、銀色の波が光ったまま動かない。頭上の星も、瞬きをやめて空に張り付いたようだ。山が息を潜めて、何かを待っているようだった。彼女は記録帖を確かめた。風速ゼロが一時間を超えた日は、七十二年のあいだに一日もない。それが二時間になり、三時間になった。

夜が明けると、谷の町まで見渡せた。旗が棒にまとわりついたまま垂れ下がり、どの電線も動かない。煙突から出た煙は、真っ直ぐに立ちのぼったまま、どこへも流れなかった。物干し竿では、干されたままの洗濯物が垂れていた。吐いた息が顔のまわりに白く漂って、なかなか消えなかった。彼女はこの静けさを、綺麗だと思った。世界がゆっくり、元の場所へ戻ろうとしているような朝だった。

端末が鳴った。「風速計の故障が疑われます。点検してください」。氷点下の外階段を登って、器械を調べた。軸は凍っておらず、受感部にも異常はない。正常な器械が、静かにゼロを指し続けていた。霜の降りた手すりが、握った手のひらの熱だけを融かしていった。

正午、配信が更新された。「西の風やや強く、空模様は平年並み」。予報図には見慣れた矢羽根が山を越えて流れている。窓の外では、雲海がまだ固まったままだ。彼女は記録帖の新しい頁を開いた。風速〇。雲海、凪。鳥、飛ばず。日付の隣に、小さく波の絵を添えた。

遠くの尾根の風車は、夜になっても一度も動かなかった。あの羽が回してきた電気が、今どこで何を動かしているのか、彼女は知らない。配信が風を吹かせているかぎり、止まった羽のことを誰も口にしないだろう。

日が暮れても、風は戻らなかった。谷の町に灯りがともっていく。観測所の中では、暖房の送風の音だけが規則正しく続いている。彼女は翌日のまだ白い欄を眺めて、ペンを握り直した。

夜
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