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終着駅で犬が吠える夜

第 77 話 / 全 89 話 2026.10.03 09:05 配信 毎日ショートショート編集部
終着駅で犬が吠える夜

終着駅に最後の電車が到着したのは、もう何年前のことだったか。彼は廃線後も線路沿いの詰め所を守り続けており、仕事は、来ない列車を待つことと、野犬に餌をやることだけになっていた。

待合室の壁には、褪せた映画ポスターが貼られたままだった。主演の女優の笑顔は、二十年の日照で白く溶け、もはや誰の顔なのか判別できない。喪失したものは、必ず形を失う。しかし形を失っても、そこに貼られ続ける。世の中とはそういうものだ、と彼は思った。

彼が証券会社にいた頃、数字は常に正しかった。S&P500という指数は世界の信頼そのものだった。信頼が続く限り、数字は増え続ける。増え続ける限り、信頼は保たれる。彼はその循環の美しさに魅せられ、同時に、その循環が絶対に壊れないという前提の薄さに、吐き気のようなものを覚えていた。皆が知っていた。皆が知っていたのに、誰も言わなかった。言った者は、席を失った。

野犬たちは一定の時刻になると、線路の切れ端に集まってきた。元々は街から追い出された犬たちだ。しかし最近、彼らは奇妙な順序で座った。大きな犬が先頭に座り、その後ろに年齢順、とでもいうような整然とした並びだった。犬の群れにそんな秩序はない。

彼は何か月もかけて観察を続け、その並び方が市場のチャートに似ていることに気づいた。先頭の犬の座る位置が上がると、市場は上がった。沈めば、市場は落ちた。犬たちは何らかの信号を受け取っている。周波数か、地鳴りか、それとも人間には聞こえない都市の心拍か。

奇妙なことに、犬たちの動きを見ていると、昔のテレビで見た遠い国の女子サッカーを思い出すのだった。十一人が一心同体のように駆け、誰も迷わず、誰も目立たず、ただ一つの意志としてボールを運んでいた。あれは美しかった。だがあの美しさの裏に、個というものが置き去りにされていることに、当時の彼は気づかなかった。群れとはそういうものかもしれない。人間も犬も、個の喪失の仕方をよく知っている。

この発見は役に立たなかった。あるいは、役に立ちすぎた。彼がまだ会社にいた頃、犬たちの写真を上司に見せたときのことだった。上司は笑った。犬が市場を予測するなら、犬に投資家にならせろ、と。半年後、その上司は基金を清算して、海の見える別荘へ引っ越した。犬たちは正しかったのだ。人間だけが、知らないふりをした。

終着駅で犬が吠える夜 挿絵

今日も犬たちは集まった。しかし今日は、いつもの並び方が崩れていた。先頭の犬は座らず、線路の先、都市の方角へ立ったまま、微動だにしていなかった。

彼は廃駅のホームで、乾いた風に吹かれていた。照明はもうない。夕闇の中で、レールは黒い光の帯のように遠くまで伸び、先は溶けて見えなくなっていた。ここが終着駅であるはずなのに、線路はまだ先へ続いているように見える。それは錯覚だ。撤去されなかった残線が、闇に紛れて伸びているだけだ。それでも彼には、世界というものが、終わりだと告げられた場所から、密かに別の場所へ向かい続けているように見えてならなかった。

犬が一匹、吠えた。続いて二匹、三匹。鳴き声は重なり、やがて規則的な間隔を持った響きとなった。まるで、打ち上げを待つ花火の順序を知らせる合図のようだった。あるいは、遠い国の競馬場で、ゲートの内側でひづめを掻く馬たちのような。

スマートフォンの画面を開く。指数はまだ上がっている。全てが順調だ。順調すぎる。犬たちの喉は震え続けている。犬にしか聞こえない音に、犬たちが応答している。人間には何も聞こえない。人間には、何も聞こえないのだ。

彼は餌をまいた。犬たちは崩れた隊列のまま、ゆっくりと食べ始めた。先頭の犬だけは食べなかった。立ったまま、都市を見ていた。

明日、市場は開く。世界は増えるはずだ。増え続けなければならない。増え続けなければ、信頼は保てないからだ。しかし彼は知っていた。終着駅に犬が集まる理由は、ここが安全だからではない。ここが、終わりに最も近い場所だからだ。終わりを誰よりも早く知りたい者が、耳を澄ませる場所。それがこの駅の、新しい役目だった。

かつて彼は、数字の裏側に何かがあることに気づきながら、何もしなかった。今度こそは、と思う。今度こそは何かを。だが何をすべきか、彼には分からなかった。警鐘を鳴らせば、二十年前と同じように笑われる。黙っていれば、せいぜい餌をまく者でいられる。

夜が深まる。犬の鳴き声は止まない。その鳴き声は、遠くの都市の高層階の窓にも、届いているのだろうか。誰かの耳に届き、誰かが窓を開け、風に耳を傾けるのだろうか。それとも、すべての窓は二重サッシで閉ざされたままなのだろうか。吠え声は夜を越え、明日の市場に注文を流す機械の音に、静かに溶けていった。

夜
毎日ショートショート編集部

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