朝のリビングは、活気に満ちていた。
F氏と妻、そして息子が朝食を囲んでいる。
トーストが焼ける匂い。
コーヒーの香り。
息子の弾むような笑い声が、部屋に響く。
F氏はいつものように新聞を広げた。
しかし、視界の隅に何かを感じた。
ソファの前に、透明な影がゆらめいている。
よく見ると、それは若い頃のF氏と妻だった。
二人は楽しそうに壁の絵を飾っている。
数年前に引っ越してきた日の記憶だ。
F氏は目を瞬いた。
影はすぐに消えた。
「どうかしたの、あなた?」
妻が心配そうに尋ねた。
「いや、何でもない。少し疲れているようだ」
F氏はごまかした。
そんなはずはない、と心の中で呟く。
朝からこんな幻覚を見るのは初めてだ。
しばらくすると、今度は窓辺に小さな人影が現れた。
幼い息子がブロックを積み上げ、崩している。
無邪気な声が聞こえてくるようだ。
実際には、息子は目の前でシリアルを食べている。
過去の残像が、現在の光景に重なっている。
F氏は混乱した。
食事を終え、妻と息子が学校と職場へ向かう準備を始めた。
リビングは彼らの動きに合わせて、さらに活気づく。
すると、部屋のあちこちに透明な映像が噴出し始めた。
ソファで妻が古いアルバムをめくる姿。
床で息子が初めて立った瞬間。
壁際でF氏が一人、夜遅くまで本を読む姿。
それらは全て、この部屋で起こった、忘れ去られた日常の一コマだった。
「ねえ、これが見えるか?」
F氏は息子が転んだ瞬間の残像を指差した。
息子は首を傾げた。「何が?」
妻も訝しげに彼を見た。「幻でも見ているんじゃないの?」
彼らには何も見えない。
F氏は一人、過去の映像に囲まれていた。
やがて家族は家を出て行った。
リビングは静まり返った。
活気が失われると同時に、透明な映像も次第に薄れていく。
F氏はソファに深く身を沈めた。
目の前の空間には、もう何も映っていない。
静寂だけが残った。
F氏がため息をついた、その時だった。
ソファの向かい、かつて妻がアルバムをめくっていた場所に、新たな人影が浮かび上がった。
それは、白髪混じりの、皺だらけのF氏自身だった。
彼もまた、透明で、この静まり返った部屋をじっと見つめている。
やがて、その老いたF氏がゆっくりと顔を上げた。
そして、今のF氏と目が合った。
老いたF氏は、微かに微笑んだ。
それは、現在のF氏を、はるか昔の「過去」として眺める者の笑みだった。
#ショートショート#毎日投稿#AI#日常系#朝
コメント