タナカは毎晩、町外れの古い木造の橋を渡って帰宅した。
その橋は、子供の頃からそこにあった。
軋む木材の音、腐食した手すり。
地元では「知恵の橋」と呼ばれていた。
曰く、あの橋は全ての過去を知っている。
曰く、あの橋は全ての未来を知っている。
もちろん、ただの古い迷信だとタナカは思っていた。
彼は合理的な人間だった。
だが最近、タナカの心には重い鉛が沈んでいた。
会社の昇進試験、妻とのすれ違い、そして将来への漠然とした不安。
その夜も、彼は深い溜息をつきながら橋の上で立ち止まった。
ふと、手のひらが触れた手すりから、微かな振動が伝わってきた。
それはまるで、彼の思考に直接語りかけるような感覚だった。
「お前のライバル、ヤマダは今朝、上司の機密書類をコピーした。書斎の奥、左から三番目の引き出しの底だ。」
タナカはぎょっとした。
幻聴か、疲労からくる妄想か。
しかし、翌日、好奇心に駆られて彼はヤマダの行動を探った。
結果は、橋が告げたとおりだった。
タナカはその情報を巧みに利用し、ヤマダを失脚させ、自らの昇進を確実なものにした。
橋は、真実を知っていたのだ。
それ以来、タナカは毎晩、橋に質問を投げかけるようになった。
隣人の秘密、取引先の弱点、株価の動向。
橋は常に正確な情報をタナカに与え続けた。
彼の人生は急速に上向き、富と名声を手に入れた。
彼は誰もが羨む存在になった。
全てを手に入れた今、タナカの心には奇妙な虚しさが広がっていた。
これ以上、何を望めばいいのか。
最後に、彼は橋に尋ねた。
「私の人生において、本当に大切なものは何だ?」
橋は軋む音を立てた後、タナカの頭に直接、一つの言葉を送り込んだ。
「失われたもの。」
その言葉の意味を考えながらタナカが家に戻ると、テーブルには一枚の置き手紙があった。
妻の筆跡だった。
「あなたが本当に大切にしていたのは、私たちが共有したささやかな日常だったはずです。今のあなたからは、それが見えなくなってしまった。」
手紙はそう結ばれていた。
橋は彼がそれを知る「時」を教えてくれただけだった。
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