K氏はいつものように、午前5時に目覚めた。
窓の外は深い霧に包まれていた。
この街の朝には珍しいことではない。
彼はベッドから起き上がり、静かにコーヒーを淹れた。
湯気が立ち上るカップを手に、窓辺に立った。
正面には、この街のシンボルである古びた時計塔がそびえている。
普段は威厳のある姿を見せているが、今朝は上半分が特に濃い霧に飲まれていた。
よく見ると、その霧の動きが奇妙だ。
時計塔の周りだけが、まるで生きているかのようにゆっくりとした渦を巻いている。
その様は、いつもの日常に、微かなひび割れを入れるようだった。
K氏はわずかに首を傾げた。
彼は身支度を整え、散歩のふりをして家を出た。
アスファルトの道は湿り気を帯び、ひんやりとしている。
足元から濃密な霧が這い上がり、徐々にK氏の姿を曖昧にする。
塔に近づくにつれて、霧は周囲の音を吸い込み、街の喧騒を消し去っていった。
遠くで響いていたはずの車の音も、鳥の鳴き声も聞こえない。
代わりに、微かに、規則正しく歯車が噛み合うような、聞き慣れない音が響く。
それはまるで心臓の鼓動のようでもあり、あるいは時間の流れそのもののようでもあった。
空気は重く、しかし清澄だった。
塔の重い樫の扉は、軋む音を立てて開いた。
K氏は内部へ足を踏み入れた。
湿った空気と、古い鉄と埃が混じり合う独特の匂いが鼻をくすぐる。
狭い螺旋階段が、上部の闇の中へと続いていた。
一歩ごとに、聞き慣れない歯車の音が明確になる。
その音は、まるで自分自身の内側から響いているかのように、K氏の意識を占めた。
時間の感覚が薄れていくのを感じながら、K氏は上へ上へと登り続けた。
天井の低い空間は、彼の存在を矮小化するようだった。
ようやく最上階近くの、小さな展望室に到着した。
窓は厚い霧で覆われ、外の景色は全く見えない。
ただ、目の前の霧だけが、一定のリズムで脈打つように揺れている。
それはまるで、呼吸する生き物のようだった。
K氏はためらいなく、その霧の塊に手を伸ばした。
ひんやりとした感触が、指先から手のひら、そして腕へと包み込んでくる。
それは壁のような抵抗感はなく、薄い膜のようだった。
霧は彼の腕を優しく受け入れた。
その瞬間、霧が薄れ、視界が開けた。
だが、そこに広がっていたのは、見慣れたK氏の街ではなかった。
代わりに、彼の目の前に現れたのは、まったく同じ構造の時計塔の展望室。
そして、その空間の向こうには、自分の部屋の窓辺に立つ、もう一人のK氏がいた。
もう一人のK氏もまた、霧の中に手を伸ばし、こちらを見つめている。
彼らは互いの存在に、同時に、そして静かに、気づいた。
二つの世界は、霧という薄い膜を挟んで、互いを映し出していたのだ。
K氏は、自分の手が霧に飲み込まれていくのを感じた。
向こう側のK氏も、同じように手を霧に差し出していた。
やがて、彼らの指先は触れ合った。
それは、自分自身に触れているような、奇妙で確かな感触だった。
その瞬間、霧は完全に晴れ、視界は元のK氏の部屋の窓辺に戻っていた。
しかし、K氏の右手の薬指には、今まで見たことのない、しかしどこか馴染みのある指輪がはめられていた。
K氏は、自分が本当に元の世界に戻ったのか、それとも、別のK氏と入れ替わったのか、知る由もなかった。
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