K氏は、またいつものように古びた書店の扉を開けた。
夕暮れ時だった。
「書架の森」と名付けられたその店は、街の喧騒から隔絶されたようにひっそりと佇んでいた。
店内は薄暗く、埃っぽい本の匂いがした。
壁の古時計は、いつも不自然なほどゆっくりと時を刻んでいるように見えた。
いや、今日は特にそれが顕著だった。
秒針の動きが、まるで粘性の液体の中を這うかのようだ。
K氏は、レジの奥で静かに座っている老店主に軽く会釈した。
店主もまた、ゆっくりとした動作で頷きを返した。
その動きは、まるでスローモーションの映画を観ているようだった。
「ずいぶん、時間がゆっくりですね」
K氏は、ふと口にした。
店主は、細い目をさらに細めて、K氏を見つめた。
「ええ。ここでは、時が遠慮しているんですよ」
K氏は、奥の哲学書コーナーへ向かった。
一冊の本を手に取り、開いた。
読み進めるうちに、外の世界のあらゆる音が遠のいていった。
街の喧騒も、車のクラクションも、人々の話し声も。
まるで、別の次元にいるかのように。
K氏はページをめくる。
一文一文が、普段よりも深く心に染み渡る。
思考が研ぎ澄まされ、普段なら見過ごすような些細な言葉にも、新たな意味を見出した。
時計を確認すると、まだ数分しか経っていない。
閉店のチャイムが、か細く鳴り響いた。
K氏は、読みかけの本を棚に戻し、店主に再び会釈して外へ出た。
まだ空は夕焼けに染まっていた。
普段ならとうに夜の帳が降りている時間だ。
K氏は困惑したが、同時に一種の安堵を感じた。
ここでは、焦る必要がない。
時間は彼を待ってくれる。
K氏はその日を終え、翌日もまた「書架の森」を訪れた。
そして、前日と寸分違わぬ現象が繰り返された。
壁の古時計はゆっくりと時を刻み、店主の動きも緩やかだった。
K氏は、この異常な体験に慣れ始めていた。
いや、むしろ、それを求めている自分に気づいた。
現実の時間は常に彼を急かし、追い立てていた。
この書店だけが、彼に許された安息の場所だった。
数日後、K氏は店主と再び言葉を交わした。
「また、いらしたんですね」
店主の声もまた、どこかゆっくりと響いた。
「ええ。ここだけが、私の時間をくれますから」
K氏は正直に答えた。
店主は、口元に微かな笑みを浮かべた。
「あなたは、いつも時間を探しに来る」
店主の言葉は、まるで過去にも聞いたことがあるような、奇妙な既視感を伴っていた。
K氏はその日も、閉店間際まで書架の森に滞在し、店を後にした。
外に出ると、空はまだ夕暮れの色をしていた。
見慣れた街並みを歩くK氏の足は、いつの間にか書店の前に戻っていた。
そして彼は、またいつものように古びた書店の扉を開けた。夕暮れ時だった。
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