サトウ氏は今日も「時の記憶」を訪れた。
定年退職後、彼の日常は穏やかな散歩と、この古びた骨董品店での時間で満たされていた。
店の名前の通り、そこには時が忘れ去ったかのような品々が所狭しと並んでいる。
埃を被ったオルゴール。
色褪せた手帳。
欠けた陶器の像。
「いらっしゃいませ」
店主は奥のカウンターから、いつものように静かに挨拶した。
彼もまた、時の流れから取り残されたような人物だった。
サトウ氏はゆっくりと店内を巡る。
目的はない。ただ、そこにある「何か」に触れたいだけだった。
古い手巻き時計を手に取った。
秒針は止まり、文字盤はくすんでいる。
すると、脳裏に一瞬、機械油と鉄の匂い、そして単調なプレス音がよみがえった。
工場で働く若者の、規則正しい日々の情景が。
別の棚で、使い古された革の財布を見つけた。
指先でその表面をなぞると、異国の風の匂いがした。
旅人が感じたであろう、自由と孤独の入り混じった感覚が。
それらはどれも短い、断片的な感覚だったが、サトウ氏は確かに「誰か」の人生の一部を垣間見たと感じた。
「珍しいものがお好きですね」
店主がいつの間にか隣に立っていた。
「ええ、まるで誰かの人生を追体験しているようです」
サトウ氏は微笑んで答えた。
店主は意味ありげに頷き、何も言わなかった。
店の奥、薄暗い棚の片隅に、無名の職人が作ったであろう、繊細なガラスの小瓶が置かれていた。
特別目を引くものではない。
何の変哲もない、ただの瓶だ。
しかし、なぜかサトウ氏の視線はそれに釘付けになった。
そっと手に取ってみる。
ひんやりとしたガラスの感触。
その瞬間、これまでのどの体験とも違う、圧倒的な情報量が彼の中に流れ込んできた。
それは、ある女性の一生だった。
初恋の甘酸っぱい記憶。
結婚式の幸福な喧騒。
幼子の小さな手を握る温かさ。
夫との穏やかな老後。
そして、ひとり残された晩年の寂寥と、穏やかな諦念。
サトウ氏はその女性の喜びを喜び、悲しみを悲しんだ。
まるで、自分がその人生を生き抜いたかのように。
数時間にも感じられる追体験の後、現実に戻ったとき、彼は深い疲労感と、言葉にしがたい充足感に包まれていた。
「それは、この店でも特に古い品でしてね」
店主の声が、現実へと引き戻した。
「誰かの、とても長い人生を体験しました」
サトウ氏は掠れた声で言った。
「ええ、その通りです」
店主は静かに応じ、ゆっくりと続けた。
「その小瓶は、未来の持ち主の記憶を溜め込むと言われています」
サトウ氏は息を呑んだ。
「未来の、持ち主……?」
店主は目を細め、サトウ氏の手にある小瓶を見つめた。
「つまり、あなたが今体験されたのは、あなた自身の未来の記憶だったのですよ」
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