消えゆく書架

毎日ショートショート

S氏は、町の一角にある小さな書店を営んでいた。

彼は本の配置を完璧に記憶していることで有名だった。

しかし最近、奇妙なことが起こり始めていた。

 

ある日、常連客のAさんが特定の本を求めた。

S氏はいつもの棚へ向かったが、本がなかなか見つからない。

指でなぞると、書物の輪郭がわずかに揺らいだように感じた。

疲れているのだろうと、彼はその違和感を振り払った。

 

しかし、現象は続いた。

補充したばかりの雑誌が、いつの間にか棚から消えていた。

ドアベルの音も、以前よりくぐもって聞こえる。

来店する客の顔も、以前ほどはっきりと思い出せない。

彼らの声も、時折、遠くで囁かれているかのようだった。

 

S氏は自分の感覚が鈍くなったのかと心配し、医者を訪れた。

しかし、検査結果は「異常なし」。

視力も聴力も、年齢の割には良好だという。

 

書店に戻ると、事態はさらに深刻になっていた。

書棚の背表紙は色が薄れ、文字が読みにくい。

店内の空気自体が、希薄になったように感じられる。

 

数日後、再びAさんが店に現れた。

彼女は、また別の本を探しているようだった。

S氏は彼女の言葉に耳を傾けながら、あることに気づいた。

Aさんの体が、うっすらと透けて見えるのだ。

その声も、もはやほとんど聞き取れない。

 

「Aさん、大丈夫ですか?」

S氏が尋ねると、Aさんはかすかに微笑んだ。

「ええ、店主さん。いつものことですよ」

彼女の笑顔は、まるで古い写真のように薄かった。

 

S氏は、店を見回した。

他の客も、皆、ぼんやりとした影のようになっている。

書棚、レジ、そして彼自身の掌までもが、朧げな輪郭を描いていた。

彼は、戸惑いながら、棚から一冊の本を取ろうとした。

しかし、指先が、わずかに本をすり抜けた。

 

そこでS氏は理解した。

消えているのは、書物でも客でもない。

この書店という存在、いや、この書店を必要とする世界の意識そのものが、薄れていっているのだ。

最近、書架が妙に軽く感じられたのは、そのせいだった。

もう、誰も、ここで、何かを、覚えている必要がなくなっていたのだから。

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