黄昏の観測者

毎日ショートショート

月面基地アルテミス3。黄昏色の地球が、巨大な球体となって窓の外に浮かんでいた。

Dr. Kは、量子もつれ観測装置「クエーサー」のコンソールを叩いた。

隣では、助手Aがデータログを読み上げている。

「異常なし。今日の通信も安定しています」

 

彼らの日常は、精密なデータと、遠い地球への淡い郷愁で成り立っていた。

この基地の目的は、地球と月の間の量子通信路の安定化。そして、その先の未知なる領域の探求だった。

Dr. Kは、とりわけ「量子もつれ」が時間や空間を超えて現象に影響を及ぼす可能性に魅せられていた。

 

ある日の夕食時。

人工肉のステーキを切りながら、Dr. Kは言った。

「最近、妙な感覚があるんだ。地球の夕焼けと、この基地の照明が、連動しているような」

助手Aは笑った。「気のせいでしょう。先生も疲れているんです」

 

しかし、翌日。

クエーサーの表示する乱数が、不可解なパターンを示し始めた。

それは、地球の特定のニュースヘッドラインと同期しているようだった。

「昨日の地球の交通状況のデータと、今朝のクエーサーの乱数が完全に一致しました」

助手Aの声が震えた。

 

Dr. Kは眉をひそめた。

「単なる偶然か。だが、量子もつれは、時に我々の理解を超える現象を示す」

実験は加速された。

彼らはクエーサーをDr. Kの脳波と接続し、彼の個人的な記憶や思考と量子もつれが起きるかを検証した。

 

結果は驚くべきものだった。

Dr. Kが過去の出来事を思い出すたび、クエーサーのディスプレイに、その出来事に関連する地球の微細なデータが飛び出した。

それは、地球のどこかで起こった、Dr. Kの記憶に呼応する、全く無関係な個人の行動だった。

例えば、Dr. Kが子供の頃の誕生日ケーキを思い出せば、地球のどこかの子供が、誕生日ケーキのろうそくを吹き消す映像が、クエーサーの画面に映し出された。

 

「これは、我々の意識が、地球のあらゆる現象と量子もつれを起こしているということか?」

Dr. Kは興奮して呟いた。

助手Aは恐怖を感じていた。「我々は、宇宙の因果律を破壊しているのかもしれません」

 

Dr. Kは耳を貸さなかった。

彼は、クエーサーが示す地球の映像を凝視した。

それは、彼の古い友人が、道端で小石を蹴る光景だった。

その友人は、もうとっくに死んでいるはずだった。

 

その夜、Dr. Kはクエーサーを最大出力にした。

月面の黄昏は、窓の外で深く濃くなっていた。

クエーサーのディスプレイが、激しく点滅した。

地球の全データが、彼らの存在と共鳴しているようだった。

 

「これで、全てがわかる」

Dr. Kは震える声で言った。

その瞬間、クエーサーの表示が、唐突に、ゼロになった。

そして、月面基地アルテミス3の窓の外に広がる、黄昏色の地球の風景が、ゆっくりと消え始めた。

 

同時に、Dr. Kと助手Aの体も、透明になり始めた。

彼らが最後に見たのは、クエーサーの画面に表示された、たった一つのシンプルな文字列だった。

それは、「観測終了」と書かれていた。

彼らの「月面基地での生活」とは、宇宙のどこかで行われている、壮大な量子もつれ実験の、たった一つの観測モジュールに過ぎなかったのだ。

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