小惑星ステーションの早朝。
ゼータは目覚めた。
窓の外には、無数のクレーターが広がる荒涼とした大地が、いつもと変わらぬ姿を見せていた。
彼は合成栄養ペーストを一口すすり、起動した端末を眺める。
今日も一日、仮想オフィスでの仕事が始まる。
この閉鎖的な小惑星ステーションで暮らす人々にとって、現実の大部分はデータ化されていた。
労働も娯楽も、そして友人との交流も、全てはVR空間で行われる。
退屈な現実の肉体は、栄養と最低限の維持さえあれば十分だった。
人々はVRゴーグルを装着し、活気に満ちた仮想世界へと没入する。
ゼータもまた、慣れた手つきでゴーグルを顔に装着した。
いつもの鮮明な仮想空間が広がるはずだった。
しかし、視界は激しく点滅し、ノイズが走った。
彼はゴーグルを外した。
視界のノイズは消えなかった。
手の甲を見ると、血管の代わりに緑色の回路パターンが浮かび上がっている。
それはまるで、低解像度のテクスチャが張り付いたかのようだった。
指で触れると、ディスプレイのような冷たい感触があった。
向かいの部屋から、デルタの声が聞こえた。
「ゼータ!何だこれ、バグか?」
デルタが駆け寄ってきた。
彼の左腕は、肘から先がゲームのキャラクターのような巨大な剣に変化していた。
刃はぼやけ、エッジが粗い。
肌の色もデジタル的なグリッド模様に置き換わっている。
周囲からも悲鳴が上がった。
隣人の顔には、アバターの猫耳と尻尾が生え、皮膚は光沢のあるプラスチックのようだった。
ステーションの壁には、仮想空間の風景が半透明のレイヤーとして重なっている。
通路を歩く人々の身体が、部分的にポリゴン化し、あるいは透明になり、あるいは色鮮やかなデジタル粒子になって崩壊していく。
管制室からのアナウンスが流れた。
「一時的な視覚異常です。落ち着いてください。システムを再起動しています。」
しかし、その声自体がピッチが狂い、言葉が途切れ途切れになっていた。
ゼータは自分の体に目を向けた。
両脚はもう人間の形を保っていなかった。
膝から下は、半透明の立方体の集合体に変質していた。
靴は消え、代わりにブロック状の足が床に触れる。
床に敷かれた配線が透けて見え、その配線から彼の身体へと直接ケーブルが伸びているようだった。
デルタは恐怖に顔を歪ませたが、その歪んだ顔もまた、低解像度のピクセルで構成されていた。
彼の頬には、VRゲームで取得したアイテムのアイコンが立体的に浮かんでいる。
誰もが自身の肉体が、仮想データと混ざり合い、変形していく様子に戸惑い、絶望した。
しかし、痛みはなかった。
ただ、異物感が全身を覆う。
ゼータの指先がかすかに揺れると、視界の端に小さな文字が浮かび上がった。
「エラー:オブジェクトの整合性喪失」
床に何かが転がった。
それは、ゼータが朝食に食べたはずの合成栄養ペーストの空容器だった。
しかし、今は彼の肉片でできているように見えた。
ゼータは思わず自分の身体に触れる。
完全にデータ化された指が、何もない空気を掴んだ。
その時、ゼータの視界いっぱいに、虹色の粒子が爆発した。
クリアになった視界には、活気あふれる小惑星の風景が広がっていた。
そこでは無数のアバターたちが、完璧なボディで自由に飛び回っている。
ゼータの頭上には、大きな文字が踊る。「変換完了!これぞ、活気に満ちた小惑星の新たな姿!」
彼は、肉体が捨てられ、精神がデータとしてアップロードされたことを知る。だが、そのデータ体の彼には、もはや悲しみや喜びはなかった。彼の心は、無限のプログラムの一部と化したのだ。
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