S氏は、人生の単調さに飽き飽きしていた。
日々は灰色に過ぎ、彼の人生に刺激は皆無だった。
特別なことは何も起こらず、ただ時間が過ぎていく。
彼が日課としていたのは「鏡の部屋」の利用だった。
街の目立たない一角、人通りの少ない裏通りにある、その不思議な施設。
外見は古びた雑居ビルの一室だが、扉を開けると、壁一面が特殊な鏡で覆われた、静かで広々とした空間が広がっていた。
室温は常に快適に保たれ、微かに流れるBGMが、利用者の心をゆったりと落ち着かせた。
そこでは、高度な装置を通して他人の人生を一日だけ体験できた。
利用者は自分の生体情報を登録し、その日の「割り当て」を選ぶ。
S氏はいつも、自分とはかけ離れた、華やかで刺激的な人生を選んだ。
退屈な自分を忘れ去るため、彼は躊躇なく「非日常」を求めた。
ある日は、莫大な資産を持つ億万長者の人生を選んだ。
豪華な邸宅で目覚め、プライベートジェットで世界を飛び回り、夜は社交界の花形として振る舞った。
またある日は、伝説の冒険家として、未踏の地を踏破し、古代遺跡の謎を解き明かした。
それらの人生は、どれも輝かしく、彼の退屈な日常を完全に忘れさせてくれた。
体験が終わると、心身はリフレッシュされ、次の日への希望がわずかに芽生えるのだった。
しかし、最近、彼は奇妙な違和感を覚えるようになった。
どんなに壮大で、どんなに危険な人生を体験しても、そして目覚めて装置から出るたび、いつも決まって鏡を見る。
そのたび、そこに映るのは全く同じ「平凡な男」の顔だった。
それは、S氏が「自分の本来の顔」だと思っている顔とは似ても似つかない、どこか見覚えのある、特徴のない顔。
最初のうちは気のせいかと思ったが、日ごとにその違和感は増していった。
まるで、別の誰かの人生を生きているのは自分ではなく、その「平凡な男」の方であるかのように。
ある夕方、彼はいつもと同じ時間に鏡の部屋へ向かった。
受付にいた管理人は、今日も無表情に今日の割り当てを告げた。
「S様。本日の体験は、『とあるしがない会社員の人生』となります」
S氏は内心で深くため息をついた。
こんな平凡で退屈な人生。
朝早くから満員電車に揺られ、定時までデスクワーク。
誰がわざわざ金と時間を使って、こんな日常を望むだろうか。
彼は不満を隠せないまま、言われるがままに装置の中へ入った。
体験が始まった。
彼は会社のデスクに座り、山積みの書類を眺めた。
意味のない会議にうんざりし、上司の小言に耳を傾ける。
ランチタイムには、いつも行く街角の定食屋で、豚の生姜焼き定食を頼んだ。
残業を終え、くたびれてアパートに戻る。
鍵を開け、ドアを開けると、そこには見慣れた部屋があった。
彼の、いつもの、退屈な部屋。
S氏は呆然とした。
なぜ今日の体験は、こんなにも自分の日常に酷似しているのか。
いや、それどころか、これは完全に彼の人生ではないか。
彼の記憶と混濁し、境界が曖昧になっていく。
彼は慌てて転換室に戻ろうと、部屋を飛び出した。
だが、その時、廊下の突き当りに設置された、全身を映す大きな鏡が目に入った。
そこに映るのは、他人の人生を体験するたびに見ていた、あの「平凡な男」の顔。
そして、その顔が、紛れもなく彼自身の顔に変わっていることに気づいた。
いや、違う。最初からずっと、これが彼自身の顔だったのだ。
「鏡の部屋」は、彼のような「退屈な日常を送る人々」を飽きさせないための、巧妙なシステムだった。
彼らは毎日、他人の刺激的な人生を体験すると思い込んでいた。
しかし、その「他人の人生」こそが、彼らが本来送っている、かけがえのない日常に他ならなかったのだ。
彼が「自分の人生」だと思っていたものは、システムが彼らに見せていた、偽りの「理想の人生」だった。
彼は鏡の向こうに、別の「平凡な男」が今日も「鏡の部屋」へ向かおうとしている姿を見た。
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