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切ない

この風だけは無料だった

第 109 話 / 全 111 話 2026.10.08 07:20 配信 約4分で読める
この風だけは無料だった

土曜の朝の河川敷は、模型飛行機クラブのものだった。会員は年金暮らしの男たち五人と、市役所の会計課に勤める彼女ひとり。だれもがエンジンも無線もつけない、手で投げるだけの滑空機を飛ばす。手を離せば、あとは風がすべて引き受ける。風は川に沿って吹くので、機体も川に沿って長く滞空した。会長の機体は真っ赤で、彼女の機体は削りたての白だった。いちばん軽く作るから、いちばん遠くへ飛ぶ。戻ってこない機体を、彼女は探しに行かないことにしていた。

堤防の下に、市立動物園があった。機体が風に流されて落ちると、飼育係が金網の外まで拾ってきてくれた。閉園の話は、どこよりも早く彼女の机に届いた。来春三月で閉園、動物は引き取る者のもとへ、土地は入札へ。同僚は言った。「毎年赤字で二千万。動物はかわいいけどね」。書類の最後の頁に、動物たちの帳簿価額が並んでいた。キリンが十二万円。ワニが八千円。檻のいちばん奥にいる鷲は、一円だった。彼女はその一円に判を押した。押す係だったからだ。

鷲は風切羽を切られた、飛べない鳥だった。それに最初に気づいたのは、ほかのだれでもなく彼女だった。土曜の午前、滑空機が河川敷の上で輪を描く。すると網の奥の鷲が、止まり木の上で翼を広げる。機体が高度を落とすと、翼はたたまれる。会長が言った。「あの鷲、飛行機が好きなんだな」。男たちはそれで済ませて弁当を広げた。彼女は毎週、鷲の翼と機体の旋回がぴたりと重なるのを、一人で見ていた。翼の広がる一瞬だけ、檻の内側に空ができた。その空は、帳簿のどこにも載っていなかった。

入札の公告を、彼女は三日ほど遅くした。理由は書けなかった。誰も気づかなかった。二月、動物たちは順番に運ばれていった。トラックは堤防の下の道路を使うので、土曜の空の下を通った。ワニの日は雨だった。キリンの日は、男たちが手を振った。鷲は最後だった。引き取ったのは繁殖施設を経営する会社で、輸送費は市の負担、鷲の対価は一円。契約書の金額欄にその一円を書き入れたのは、彼女だった。鷲を載せた箱が堤防を行くとき、会長の赤い機体がちょうど頭上で旋回していた。鷲は箱の暗がりの中にいて、それを見なかった。

三月末、園は閉じた。彼女は固定資産の現況確認という名目で、園の鍵をあずかった。返却は月曜の予定だった。日曜の朝、彼女は一人で門を開けた。象の舎も猿山も、からっぽだった。売店の棚には動物の形をした消しゴムが、値札のまま残っていた。鳥舎の前で、足が止まった。網の破れから、すずめやシジュウカラが出たり入ったりしている。給餌口の扉が半分開いて、ヒヨドリが枯れ草をくわえて飛び出した。最後の日、飼育係はあの扉を閉めなかったのだと、彼女はあとで思った。鷲の止まり木の下には、もう巣の土台が円く積まれていた。檻は、巣にかわりつつあった。

四月、落札した会社が測量杭を打ちに来た。図面では三階建ての物流倉庫になるという。河川敷の風は変わらず、土曜の飛行は続いた。連休あけ、鳥舎に解体の足場が組まれはじめた。その日、彼女の白い機体が堤防を越えた。まっすぐに鳥舎へ向かい、給餌口の隙間へ滑り込んで消えた。男たちは、また遠くへ行ったか、と笑って帰っていった。彼女は返却期限のすぎた鍵で、門を開けた。

鳥舎の網の下に、機体は翼を伏せて落ちていた。止まり木の下の巣には、卵が三つ。親鳥は網の破れから出て、彼女の頭上を低く横切った。彼女は機体を拾い上げ、しばらく見て、それから草の上に戻して置いた。門を出て、鍵をかけた。月曜には返す。夏には倉庫の骨が上がり、この丸い網も崩される。それでも卵は孵るだろう。孵った雛は網の破れから出て、河川敷の風に乗る。檻の中で生まれて、檻を知らずに飛んでいく鳥を、私たちは何と呼べばいいのだろう。

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