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湯けむりは、配当を知っていた

第 36 話 / 全 36 話 2026.09.30 05:07 配信 毎日ショートショート編集部
湯けむりは、配当を知っていた

俺の仕事は、板前場の隅で皿を洗うことだ。仕込みの包丁の音、出汁の匂い、湯上がりの客の笑い声が壁を隔てて漏れてくる。この旅館は百二十年続いたが、三年前、大手の観光資本に買われた。看板はそのまま、湯はそのまま、ただ帳簿の形が変わった。

毎朝六時、支配人は源泉の温度計の数値を帳簿に書く。湯温と、加水の量と、再熱の時間。昔は亭主が書いていた。今の支配人は月に二度、本社から来る。手にした資料の表紙には「安定配当の確保」とあった。俺は皿洗いの手を止めず、その文字の並びを暗記した。

湯温は、ゆっくり下がっている。一月に〇・二度ずつ、確実に。年単位で見れば歴然だ。支配人は「循環ろ過設備の更新で対応します」と本社に報告する。設備の更新には予算がかかる。予算は配当に回る。配当に回った分だけ、設備は古いままだ。誰も嘘をついていない。それが一番、厄介だった。

板前の棟梁だけは気づいている。棟梁はこの宿の湯を四十年前から知っている。

「臭いが薄くなった」と、棟梁はこっそり言った。客には分からない。塩素の匂いに紛れてしまう。客は湯舟に浸かり、窓の外の山を見て、満足する。満足は数値になる。数値は配当になる。配当は誰かの微笑ましい会報になる。湯はその途中で、少しずつ薄まっていく。誰の帳簿にも、薄まり方は記載されない。

休憩室の小さなテレビでは、夜の野球中継が流れていた。遠い国のスタジアムでは、選手が走り、観客が叫び、企業のロゴが光る。棟梁はたまに声を上げて喜ぶ。俺は洗い物の手を休めて、あの球場の照明の明るさと、ここの湯の暗くなる速さを、ぼんやり比べた。どちらも同じ電気で照らされているのに、向こうだけが明るく見えるのは、きっと記録のされ方が違うからだ。

先月、地元紙に小さな記事が載った。買収した企業、配当金の過去最高を更新。翌週、宿の玄関の修繕予算が先送りされた。瓦が一枚欠けたまま、梅雨を迎えた。雨の日、板前場の天井から雫が落ちる。俺は雫を受ける桶を置きながら思う。この宿は、湯を売っているのか、湯が続くという物語を売っているのか。

閉館後、たまに俺は脱衣場から湯舟を覗く。深夜の湯は、誰の体温も混ざっていない。湯気が水の上で、かすかにためらっている。俺はそれを見るたびに思う。地底の湯が、人間の帳簿とは別の計算を始めたのではないか、と。

世界の終わりは、爆発ではない。湯温が一月に〇・二度ずつ下がるようなものだ。誰も怒らない。誰も責任を取らない。小さな数字が積み重なって、ある朝、湯が嘘をつく。そして嘘は、そのまま商品になる。美しいとすら言える。白く漂う湯気は、以前と何一つ変わらないのだから。

その朝、源泉ポンプの計器はゼロを指していた。それでも大浴場の湯は温かい。再熱装置が一所懸命に焚いている。客はおかげで、何も知らないまま満足した。支配人は冷静にメーカーへ電話をかけた。「復旧までの臨時対応を」と。声に焦りはなかった。臨時という言葉が、いつまでも続くことを、支配人は知っていたのかもしれない。

俺は板前場で、黙々と皿を洗った。棟梁は出汁を取っていた。湯の代わりに、出汁の香りが立つ。どこかで世界が崩れ始めているのに、ここの台所だけは、丁寧に明日の朝食を用意していた。丁寧さが救いなのか、それとも一番の欺瞞なのか、俺にはまだ分からない。

今夜も閉館後、誰の体温もない湯舟に、湯気が立っている。焚きなおされた湯の湯気は、本物の湯気と、どこか違う気がする。かすかに、ためらっていない。俺はそれを見届けようと思う。湯気が消えるその日まで。世界が本当に嘘をつき始める、その静かな瞬間を。

夜
毎日ショートショート編集部

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