朝7時。
タナカは駅前の自動駐輪場に自転車を押し込んだ。
いつものように満員御礼だ。
前方のスペースが奇跡的に空いていた。
ハンドルを切り、勢いよく突っ込む。
カチャン、とロックされる音がした。
その瞬間、頭の中に何かが「ズン」と入ってきた。
一瞬のめまい。
次の瞬間、脳裏には膨大なデータが洪水のように流れ込む。
「…光速不変の原理…」「…マヤ文明の暦…」「…火星の衛星フォボスの組成…」
知らないはずの情報が、理解を伴って展開された。
「あら、私も」
隣で自転車を停めていたミセス・サトウが、空ろな目で呟いた。
「これがビッグバン理論の最新論文ですね」
彼女の手には買い物袋が握られている。
タナカはよろめきながら改札へ向かった。
ホームには、すでに多くの人々が立ち尽くしている。
皆、虚ろな目をして、時折意味不明な言葉を口にしている。
「…エックス線の波長は…」「…アリストテレスの形而上学…」「…深海魚の生態系と進化の歴史…」
駅のアナウンスが流れる。
「…只今、全地球規模で…」
女性駅員が慌ててマイクを切った。
しかし、彼女の口から漏れたのは、ロシア語で書かれたソビエト連邦の国家計画に関する詳細なレポートだった。
駅の天井から吊るされた大型ディスプレイには、ニュース速報の代わりに、量子力学の数式と、はるか昔の地球の地層データが交互に表示されている。
それは、まるで世界そのものが、巨大な図書館になったようだった。
いや、違う。
世界は、巨大な情報処理装置と化していた。
タナカは視界の端で、自分の手の甲に遺伝子の塩基配列が、立体的に光りながら浮かび上がっているのを見た。
脳内では、自分という個体を構成する全てのデータが瞬時に解析され、宇宙の成り立ちから微粒子の振る舞いまで、あらゆる「知識」として変換されていく。
もはや「自分」という意識は、意味を持たなかった。
自転車置き場は、今日も知識で満ち溢れていた。
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