価値ある眠り

毎日ショートショート

深夜零時を回っていた。

サトウ氏は、行きつけの美容院「ナイトヘアー」の椅子に座っていた。

店内に客はサトウ氏一人。

ハサミを動かすタナカ氏の音だけが、静かに響く。

都会の喧騒から隔絶されたような、奇妙に落ち着く空間だった。

疲労困憊のサトウ氏は、ここ数日まともに眠れていない。

髪が短くなるにつれ、頭の中も少しずつ整理されていくような気がした。

やがて、タナカ氏は「終わりました」と静かに告げた。

「ええ、ありがとうございます」

サトウ氏は立ち上がり、会計へ向かう。

「本日は七千円になります」

タナカ氏の声はいつも通り、感情がこもっていなかった。

サトウ氏は財布から、しわくちゃになった千円札を七枚取り出した。

それをタナカ氏に差し出す。

タナカ氏は受け取ろうとせず、無表情のままサトウ氏の顔を見上げた。

「お客様。申し訳ありませんが、それはお預かりできません」

サトウ氏は困惑した。

「え?何のことです?」

「その紙幣は、今朝から価値を失いました」

サトウ氏は冗談かと思ったが、タナカ氏の目は真剣だった。

「冗談でしょう。まさか」

サトウ氏は慌ててポケットを探ったが、他の紙幣や硬貨も、触るとただの無意味な金属片や紙切れに感じられた。

店内の窓の外は、真っ暗な闇に覆われている。

街灯の明かりも、車の音も、何も聞こえない。

サトウ氏は店のドアノブをひねったが、びくともしない。

「では、どうすればいいのですか?髪を切ってもらったのに、払えないと?」

サトウ氏は焦燥感を覚えた。

「ご心配なく。お支払いいただくものはございます」

タナカ氏は淡々と答えた。

「お客様の、何らかの経験。あるいは、感情。それに見合うものと交換させていただきます」

「経験?感情?」

サトウ氏には理解できなかった。

「例えば、そうですね……お客様がこれまで経験した、最も幸福な一日の記憶。あるいは、今後訪れるはずだった、十年分の平穏な睡眠。どれになさいますか?」

タナカ氏は選択肢を提示した。

サトウ氏は、自分の人生が天秤にかけられているような気がした。

幸福な一日の記憶を失えば、過去が薄れる。

十年分の睡眠を失えば、未来が蝕まれる。

「…では」

サトウ氏は苦渋の決断をした。

「私の、今後訪れるはずだった、五年分の平穏な睡眠を、お渡しします」

彼は、ここ数日の不眠を思い出し、それが最善の選択肢だと考えた。

タナカ氏は満足げにうなずいた。

「かしこまりました」

次の瞬間、サトウ氏の頭の中に、微かな、しかし確かな空洞が生まれた。

失われたものは目に見えないが、彼の疲労感は一層深まった。

まるで五年間分の睡眠負債を前借りしたようだった。

「ありがとうございました。またのご来店をお待ちしております」

タナカ氏の声が響く。

サトウ氏は、軋む体で美容院を出た。

外は、何事もなかったかのように、いつも通りの深夜の街並みが広がっていた。

ポケットに手を入れると、財布の中の紙幣や硬貨は、奇妙なほどに軽く、何の価値もない単なる紙と金属片に感じられた。

彼は知った。世界が変わったのは、この美容院の中だけではなかったのだと。

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