タナカ氏は、町立図書館の禁書庫で働いていた。
埃と古書の匂いが充満する、静かな場所だ。
彼の仕事は、一般には公開されない古い書物を整理し、管理することだった。
そこは時が止まったかのような空間で、タナカ氏の毎日は穏やかに過ぎていった。
ある昼下がり。
彼は高所の棚から古い革装丁の本を降ろそうとした。
その時、手が滑り、バランスを崩す。
ガタガタと音を立てて、隣の棚の隙間から、一冊の小さな本が滑り落ちてきた。
表紙に題名はなく、ただ黒い革が貼られているだけだ。
タナカ氏は好奇心に引かれ、それを開いた。
すると、古ぼけた羊皮紙のページに、文字ではない何かがゆっくりと浮かび上がる。
それは、鮮明な映像だった。
同僚のミズキ嬢が、次の日の朝、自身のデスクでコーヒーカップを倒し、大切な書類を水浸しにする光景。
タナカ氏は思わず本を閉じた。
奇妙な錯覚だ、と彼は考えた。
翌日。
ミズキ嬢は本当にコーヒーカップを倒し、書類を水浸しにした。
「ああ、もう!」と彼女は嘆いた。
タナカ氏はその光景を見て、背筋に冷たいものが走った。
それから、タナカ氏はその無題の本に夢中になった。
昼休みや閉館後、彼は禁書庫に閉じこもり、ひっそりと本を開く。
ページをめくるたびに、様々な人の未来が映し出された。
近所の老婦人が道で転倒する未来。
町長の息子が試験に落ちる未来。
小さな商店の店主が詐欺に遭う未来。
どれもこれも、彼が知っている人々の、ささやかな不幸ばかりだった。
まるで、運命の縮図を見ているようだった。
彼は一度だけ、友人の未来を本で見て、警告しようとしたことがある。
友人には小さな交通事故が起こる未来が映っていた。
タナカ氏は「気をつけろ」と忠告した。
しかし、友人は事故に遭わなかった代わりに、その日、別の場所でさらに深刻な人身事故を起こしてしまった。
以来、タナカ氏は未来への介入をやめた。
運命は変えられない。
あるいは、変えようとすると、より悪い結末を招くのかもしれない。
彼はただ、冷徹な観察者として、人々の未来を静かに見守り続けた。
優越感と、それ以上の無力感が彼を支配した。
ただ一つ、彼を悩ませたのは、どんなにページをめくっても、彼自身の未来が決して映らないことだった。
なぜ、自分の運命だけは分からないのか。
彼は本の隅々まで調べたが、何のヒントも見つからない。
ある日のこと。
禁書庫の最奥に、古文書の山に埋もれた一冊の分厚い解説書を見つけた。
『禁書目録 秘匿の書に関する覚え書き』。
ページをめくると、無題の黒い本のことが記されていた。
そこには「運命の書」とあった。
「この書は、開かれるたびに、この世の誰かの運命を記述し、その記述された運命は必ず現実となる。決して開いてはならない」
そして、こうも付け加えられていた。
「この書を開き、他の者の運命を読みし者、その者は既に、書に『管理者の運命』を記されている」
タナカ氏は本を閉じた。
彼の未来が映らなかった理由が分かった。
彼は未来を「見る」者ではなかった。
彼は未来を「作る」者の一部だったのだ。
そして、彼がこの図書館の禁書庫の司書になったのも、その運命の書に記された通りだった。
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