K氏は日々の生活に倦んでいた。
仕事は単調で、人間関係は希薄。
週末も特別な予定はなく、ただ時間だけが過ぎていく。
ある午後、散歩中に寂れた路地に迷い込んだ。
そこには小さな骨董品店があった。
店先には埃をかぶった品々が並び、古びた看板には『思い出堂』と記されている。
K氏はふと吸い寄せられるように店内へ入った。
薄暗い店内に、様々な時代の物品が雑然と積み重ねられている。
奥には白髪の老店主が、K氏を一瞥するだけで、特に言葉を交わすこともなく座っていた。
K氏は無意識に、棚の奥にあった古びた懐中時計を手に取った。
冷たい金属の感触。
次の瞬間、脳裏に鮮烈な映像が流れ込んできた。
豪華客船のデッキ、海原を見つめる若い男女。
プロポーズの言葉。歓喜の抱擁。
それは、K氏には想像もできないほど情熱的で、鮮やかな人生の一幕だった。
数秒後、映像は途切れた。
K氏は呆然としていた。
これは一体何だったのか?
老店主はK氏の様子をじっと見ていたが、何も言わない。
K氏はそれから毎日のようにその店を訪れるようになった。
様々な骨董品を手に取り、他人の人生を「体験」した。
古い万年筆からは、名もなき作家の苦悩と栄光が。
使い込まれた地球儀からは、探検家の冒険と孤独が。
錆びた鍵からは、秘密の恋人たちの逢瀬と、最後の別れが。
どの人生も、K氏のそれよりはるかにドラマチックで、魅力的だった。
彼の日常は、他人の思い出に彩られ、自身の人生はますます色褪せていった。
K氏は次第に、自分の人生を生きることに価値を見出せなくなっていた。
ある日、K氏は一つのことに気づいた。
体験する人生は、どれも「完結」していないのだ。
幸福の絶頂で途切れるもの。
悲劇の真っ只中で終わるもの。
未来が輝いていたであろう瞬間に幕が閉じるもの。
まるで、誰かが意図的に最も印象的な部分だけを切り取ったかのように。
彼はふと、店主の顔を見た。老人は静かに、しかし深い眼差しでK氏を見つめ返していた。
その目には、すべてを知っているかのような、諦めにも似た感情が宿っているように思えた。
K氏は店内で、これまで見たこともない、妙に真新しい品物を見つけた。
それは、くすんだ青色のマグカップだった。
持ち手には微かな欠けがあり、底にはコーヒーの染みがついていた。
K氏はそのマグカップを手に取った。
すると、映像が流れ込んできた。
目覚まし時計の音。
冷めたコーヒー。
満員電車。
薄暗いオフィス。
深夜のコンビニ弁当。
そして、古びた骨董品店へと入っていく男の後ろ姿。
それは、まさしくK氏自身の、昨日までの人生だった。
K氏がそのマグカップを手放すと、老店主はゆっくりと立ち上がり、K氏が今日店に置いていった、くすんだ青色のマグカップを棚に並べた。
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