K氏は夕方の散歩を日課としていた。
地平線に沈む太陽が、街全体を鮮やかなオレンジ色に染め上げていた。
普段は通らない、町外れの古い小道を歩いていると、藪の奥に忘れ去られた井戸が見えた。
使われなくなって久しく、周囲は雑草に覆われていた。
ふと、K氏の目がその井戸の内部に引き寄せられた。
夕日の光が直接差し込み、水面が異常なほど鮮烈なオレンジ色に輝いている。
まるで、底から光が湧き上がっているかのようだった。
K氏はゆっくりと井戸に近づき、身をかがめて覗き込んだ。
自分の顔が水面に映らない。
代わりに広がっていたのは、見慣れない風景だった。
空の色は深く紫がかっており、奇妙な形状の建造物が立ち並んでいた。
生き物らしき影が動き回り、こちらを感知する様子はない。
それは、紛れもなく別の世界だった。
「おじさん、何見てるの?」
背後から少年の声がした。
近所のタロとハナが、好奇心に満ちた目でK氏を見上げていた。
K氏は何も言わずに、井戸の縁を叩いた。
乾いた音が響く。
「変な水!」タロが井戸を覗き込み、興奮した声を上げた。
「こわい……」ハナはK氏の服の裾を握りしめた。
タロが近くに落ちていた小石を拾い上げ、井戸の中に投げ入れた。
ヒュー、と空を切る音。
パチャ、という水音は聞こえず、水面に波紋も立たなかった。
別の世界の風景は、ただ静かにそこにあった。
井戸の噂は瞬く間に広まった。
好奇心旺盛な人々が押し寄せ、井戸の周りには連日人だかりができた。
政府機関もこの異常事態を無視できず、特殊調査チームが派遣された。
様々な計測器が設置され、数々の実験が繰り返された。
結論は一つだった。
井戸は、物理的な干渉を一切受け付けない。
また、そこから何かが出てくることもない。
ただ、一方的に「別の世界」を映し出すだけの「窓」として機能していた。
人々は井戸の前に座り込み、向こう側の世界の生活を観察し始めた。
彼らの文明は、K氏たちのものとよく似ていたが、細部に奇妙な違いが見られた。
K氏もまた、毎日井戸の前に陣取り、その世界の移ろいを熱心に記録した。
それは、まるで壮大なドキュメンタリー映画を見ているかのようだった。
数ヶ月が過ぎたある夕方。
いつものようにK氏が井戸を覗き込んでいると、向こう側の世界で奇妙な光景が目に入った。
あちらの世界の住人たちが、自分たちの世界にある「井戸」を覗き込んでいるのだ。
その井戸もまた、このオレンジ色の井戸と同じように、鮮やかな光を放っていた。
K氏は息を飲んだ。
そして、あちらの世界の井戸に映し出されているものを見て、完全に理解した。
そこには、見慣れたK氏の街の風景が広がっていた。
夕焼けに染まる井戸の縁に立つ、自分自身の姿が。
K氏が覗いていたオレンジ色の井戸は、彼自身が覗かれている「向こう側」だったのだ。
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