「言の葉」は、駅の裏手にひっそりと佇む喫茶店だった。
古びた木の扉を開けると、コーヒーの香りと、穏やかなざわめきが客を出迎える。
ヤマモト氏は、いつもの窓際の席に腰を下ろした。
マスターは無口で、ただ黙々と豆を挽き、湯を注ぐ。
店内の客は皆、思い思いの言葉を交わしていた。
ヤマモト氏は、手元の新聞に目を落としながらも、耳は自然と周囲の会話を拾っていた。
「今日は財布を忘れてきた」と、初老の男が隣の席の友人に言った。
すると、男のポケットから、くしゃくしゃになった千円札がはらりと落ちた。
男は驚き、友人と顔を見合わせる。
ヤマモト氏は、気のせいだろうと首を振った。
しばらくして、若い女性が携帯電話で話していた。
「あー、もう、この雨止まないかなあ」
その言葉が終わるやいなや、店内の窓ガラスに激しい雨粒が打ち付け始めた。
数分前まで、外は快晴だったはずだ。
ヤマモト氏は、今度こそ顔を上げた。
マスターが静かにコーヒーを運んできた。
「お待たせしました」
その声はいつもと変わらない。
ヤマモト氏はカップに口をつけた。
「この店のコーヒーは、いつもながら素晴らしい」
と、彼は呟いた。
瞬間、彼の口の中に、かつて味わったことのない、究極の香りと苦みが広がった。
それは、他のあらゆるコーヒーを霞ませるほどの体験だった。
彼の脳裏から、これまで飲んできた全てのコーヒーの記憶が、色褪せていくのを感じた。
ヤマモト氏はマスターを見た。
マスターは、彼の視線を受けても、表情一つ変えず、淡々とカウンターの布巾を絞っていた。
「ここは…」
ヤマモト氏は声を絞り出した。
「言葉が、現実になるのか」
マスターはゆっくりと顔を上げた。
「ええ、まあ。古くから、そういう場所として知られています」
彼の声には、達観した響きがあった。
「言葉は、時に重いものです」
ヤマモト氏はゾッとした。
彼の「素晴らしい」という言葉が、他の全てを「素晴らしくない」ものに変えてしまったのだ。
彼は店内の他の客に目を向けた。
「今日は何もしなくていい一日だったらいいのに」と独り言を言った男は、コーヒーを飲み干すと、そのまま椅子に深々と沈み込み、微動だにしなくなった。
「あのプレゼン、成功するって言われたらいいのに」と電話で話していた女性は、電話を切ると、満面の笑みで飛び上がった。
そして、次の瞬間、彼女の背後から拍手の幻聴が聞こえた。
ヤマモト氏は思った。
誰もが、自分の望む現実を言葉にしている。
しかし、その言葉の裏には、常に何らかの代償が潜んでいるのではないか。
彼は自身の体験を思い出し、背筋が寒くなった。
究極のコーヒーを得た代償として、他のコーヒーの喜びを失った。
「マスター」
ヤマモト氏は尋ねた。
「ここは、誰が作ったのですか」
「さあ。この店の扉が開いた時から、言葉はここに宿っていたと聞きます」
マスターは、カップを洗いながら言った。
「言葉は、もともと力を持っていたのです。私たちが、それを忘れていただけでしょう」
ヤマモト氏は深く考え込んだ。
言葉に責任を持つこと。
それは、自らの世界を創造することと等しい。
そして、その創造が、時に予測不能な結果をもたらすことを。
彼は心の中で、ある言葉を呟いた。
「みんな、もっと、幸せになればいいのに」
それは、何の代償もなさそうな、普遍的な願いだった。
店の活気は一瞬止まり、そして、再び穏やかなざわめきが戻った。
ヤマモト氏は、ふと外を見た。
晴れ渡っていた空が、いつの間にか厚い雲に覆われていた。
店内を見回すと、全ての客が、全く同じ顔、同じ服装、同じ仕草で、無表情にコーヒーを飲んでいた。
マスターも、ヤマモト氏自身も、その光景の中に溶け込んでいた。
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