夕暮れ時、空襲警報が鳴り響いた。
人々は慣れた足取りで、市営の地下防空壕へ向かう。
古びたコンクリートの壁が、湿った空気と土の匂いを閉じ込めていた。
当初、防空壕は人で溢れかえっていた。
談笑する者、膝を抱える者、黙って天井を見上げる者。
J氏は入り口近くの隅に座り、腕時計に目をやった。
K女史は小さな鏡を取り出し、顔色を気にしていた。
L老人は瞑想するように目を閉じている。
数時間が経過した。
警報は解除されたが、すぐに外へ出る者は少なかった。
だが、一人、また一人と、皆、それぞれの理由で地上へと戻っていった。
静けさが少しずつ増していく。
J氏は誰もいなくなった通路の奥に視線を向けた。
K女史は小さなため息をついた。
深夜、防空壕に残っているのは、ごく僅かな人々だけになった。
そして、その頃から、奇妙な「声」が聞こえ始めた。
明確な言葉ではない。
さざ波のようなざわめき。
誰かの囁き。
意味不明な、だが確かに人の気配を感じさせる音。
「何か聞こえるかしら?」
K女史が耳を澄ませた。
J氏は首を振る。
「気のせいでしょう。残響です」
L老人は、静かに目を閉じたまま、何も言わなかった。
翌日。
また一人、二人と人が減った。
声は、よりはっきりと聞こえるようになった。
それは、複数の声が重なり合ったような、奇妙な不協和音。
しかし、決して直接話しかけてくることはない。
ただ、そこに「ある」のだ。
J氏は苛立ちを覚えた。
K女史は怯え、壁際に身を寄せた。
L老人は、時折、微かに微笑んでいるように見えた。
「一体、何なのです?」
K女史が震える声で尋ねた。
J氏は答えようがない。
声は、時々、悲鳴のようにも聞こえた。
あるいは、歓声のようにも。
だが、どれも人の形を持たない。
それは、空気の振動そのものが意志を持ったかのようだった。
さらに数日が経ち、残る者はJ氏とK女史、そしてL老人の三人だけになった。
声は、いまや防空壕全体を覆い尽くすほどになった。
まるで、彼ら以外の「存在」が、防空壕の隙間を満たしているかのようだ。
K女史は狂気に蝕まれ、錯乱し始めた。
「やめて!聞こえる、聞こえるわ!」
彼女はそう叫び、地上へ飛び出していった。
二度と戻ってくることはなかった。
残されたのはJ氏とL老人。
声はJ氏の耳元で直接囁いているようだった。
J氏は自らの理性が崩れていくのを感じていた。
「これは…何なんだ?」
J氏が震える声で尋ねた。
L老人はゆっくりと目を開けた。
その瞳は、何か遠いものを見ているかのようだった。
「防空壕は、人の残滓を食べるのです」
L老人が静かに言った。
「恐怖、安堵、希望、絶望…あらゆる感情がここに沈殿し、やがて声となる」
J氏の背筋に冷たいものが走った。
L老人は、立ち上がった。
そして、防空壕の奥へ、声のする方へと歩き出した。
J氏は呼び止めようとしたが、声が出なかった。
L老人の姿は、闇の中に消えていった。
残されたのはJ氏一人。
声は、J氏の存在そのものを包み込もうとしていた。
J氏は、自分がその声の一部となることを悟った。
そして、J氏が最後に聞いたのは、自分自身の声だった。
その声は、これからこの防空壕を訪れるであろう、未来の誰かに向けて、静かに語りかけていた。
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