K氏は古いY邸にいた。
彼は建築家で、この度、相続された屋敷の査定に訪れていた。
陽光が差し込むが、屋内はひんやりとしていた。
長年住人のいない空間は、独特の匂いを放っていた。
カビと埃、そして過去の生活の残り香が混ざり合っていた。
彼が任されたのは、この屋敷を現代の暮らしに合うよう改築するか、あるいは解体して更地にするかの判断だった。
廊下を歩くK氏の目に、奇妙なものが留まった。
床板の隅に、手のひらほどの焦げ跡があった。
黒ずんだそれは、まるでタバコか線香をうっかり落としたかのようだった。
しかし、あまりにもくっきりと、そして不自然なほど古びて見えた。
K氏は屈んで、指で触れてみた。
ザラリとした感触。
拭いても落ちそうにない。
彼は後日、清掃業者に指示を出した。
「あの焦げ跡、綺麗にしてください」
数日後、K氏が再び屋敷を訪れると、焦げ跡は消えていた。
「さすがプロだな」と彼は思った。
だが、その翌週、別の部屋の床に、同じ焦げ跡が出現した。
今度は書斎の隅だ。
K氏は首を傾げた。
清掃業者のミスだろうか。
彼は再び業者に連絡し、徹底的な清掃と調査を依頼した。
しかし、結果は同じだった。
消えたかと思えば、数日後に別の場所に現れる。
焦げ跡は、屋敷内を静かに移動しているかのようだった。
K氏は焦げ跡のパターンを調べ始めた。
古い家屋の図面を広げ、出現した場所を印した。
焦げ跡は常に床の隅、壁際、あるいは柱の根元といった目立たない場所に現れた。
まるで、誰かの生活の一部を、そっと切り取って焼き付けたようだった。
K氏は次第に不眠に陥った。
焦げ跡の存在が、彼の心を蝕んでいく。
彼は屋敷の過去を調べ始めた。
昔の新聞記事、地域の歴史書、近隣住民の聞き込み。
すると、ある老婦人が、似たような話をした。
「あの家はね、昔から変な焦げ跡が出るって言われてたよ。火事でもないのにね」
その話によると、焦げ跡は家の改築や、大規模な清掃が行われるたびに現れたという。
そして、その焦げ跡は、常に「消そうとした場所」とは異なる場所に発生する、と。
まるで屋敷が、その「潔癖な」努力を拒絶しているかのようだった。
K氏は、焦げ跡がなぜ消えないのか、その理由に気づき始めた。
それは、屋敷が単なる古い建物ではないからだ。
屋敷は、自分の中に蓄積された「記憶」や「痕跡」を消されることを嫌がっていた。
焦げ跡は、屋敷の抗議の印であり、その歴史を刻み続ける意思表示だった。
K氏は、屋敷を解体することを決意した。
これ以上、この奇妙な現象に付き合うのはまっぴらだった。
解体の日、重機が屋敷の壁を崩し始めた。
その瞬間、K氏は、屋敷全体が、かすかに、だがはっきりと、大きな焦げ跡に包まれるのを見た。
それは、屋敷そのものの「消えることのない痕跡」だった。
そしてK氏の心臓が止まる直前、彼は自分自身の心臓の形をした小さな焦げ跡が、彼の足元の瓦礫の上に、新しく出現するのを確かに見た。
屋敷の記憶は、彼をも取り込んだのだ。
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