A氏は毎朝、真新しいオフィスビルの受付を通過した。
ガラスとクロムで構成された未来的な空間は、改装されてまだ半年だ。
受付嬢のB子は、いつも完璧な笑顔で挨拶した。
「おはようございます、A様。」
彼女の背後には、最新鋭のシステムが複雑に光っていた。
ある朝のことだった。
A氏が受付を通過しようとした、その一瞬。
足元に、奇妙な違和感を覚えた。
振り向くと、そこに、自分の影がへばりついている。
まるで地面に貼り付けられたように、A氏から切り離されて。
影はゆっくりと、まるで生き物のように蠢いた。
そして、受付カウンターの下にある、幅の狭いスリットへ、音もなく吸い込まれていった。
A氏は目を見張った。
しかし、背後からは急かすような同僚の声が聞こえる。
「Aさん、早くしないと遅れますよ!」
A氏は混乱を胸に秘め、とりあえずオフィスへと向かった。
デスクに着いても、あの影のことが頭から離れない。
幻覚だったのか。
それとも、疲労がピークに達したサインか。
隣の席の同僚、C氏はいつも通りPCと格闘している。
C氏も、受付で影を落としてきたのだろうか。
A氏は口を開きかけたが、馬鹿にされるのが怖くて言葉を飲み込んだ。
昼休みになった。
A氏は、社員食堂へ向かうふりをして、こっそり受付ホールへ戻った。
柱の陰に身を隠し、他の社員たちの様子を観察する。
次々と社員が受付を通過していく。
そのたびに、それぞれの足元に、まるでインクの染みのように影が残り、スリットへと消えていくのが見えた。
誰も気づいていない。
いや、気づかないふりをしているのか。
A氏は受付嬢のB子に声をかけた。
「すみません、B子さん。あのスリットは何ですか?」
B子は、またも完璧な笑顔で応じた。
「さあ、よくわかりませんわ。お客様のプライバシーに関わることはお答えできませんので。」
その声には、一切の感情がこもっていなかった。
夕方、退勤時間になった。
A氏は今日一日、集中できなかった。
やはり幻覚ではなかったのだ。
受付を通過しようとすると、奥のスリットがわずかに開き、何かが滑り出てきた。
それは、A氏の足元へするりと吸い込まれ、形を成した。
自分の影だ。
しかし、その影は、朝のものとは明らかに違っていた。
色が少し薄い。
いや、色褪せている、と言った方が正しいだろう。
動きも、なんとなく鈍い気がした。
その夜、会社から一通のメールが届いた。
「社員の生産性向上プログラムの成功について」
メールには、最新の「自動活力リフレッシュシステム」が導入されたと書かれていた。
社員の疲労やストレスは「影」として抽出し、それを有機肥料や電力として再利用しているという。
そして、毎朝、システムが完全にリフレッシュされた「新しい影」を供給することで、社員は常に最高のパフォーマンスを発揮できる、とも。
A氏は、自分の足元の、どこか精彩を欠いた影をじっと見つめた。
#ショートショート#毎日投稿#AI#SF系#朝
コメント