ヨシダ氏は、夜の帳が降りた頃、古い石造りの橋を見回るのが日課だった。
その橋は、百年以上の歴史を持ち、街の喧騒から離れた場所で、ひっそりと川に架かっていた。
彼は橋の欄干に手を置き、その冷たい感触を確かめる。
常に変わらぬ存在である橋に、一種の安心感を抱いていた。
ある晩、彼は橋の中央で立ち止まった。
微かな声が、風に紛れて聞こえた気がした。
「眠れない」
それは、人の言葉に似ていた。
ヨシダ氏は首を傾げたが、気のせいだろうと見過ごした。
しかし、翌晩もその声は聞こえた。
今度は、より鮮明に、橋のあちこちから響いてくるようだった。
錆びた鉄骨が低く呻き、苔むした石畳が囁く。
「一日も、一刻も、眠ったことがない」
「この重みが、記憶が、離れないのだ」
ヨシダ氏は、それが橋そのものの声だと悟った。
彼は恐れることなく、静かに橋に語りかけた。
「なぜ、眠れないのか」
橋は答えた。
その声は、水が流れるような、風が石を削るような、いくつもの音が混じり合っていた。
「私の上を、どれほどの者が通り過ぎたか。数え切れぬ」
「彼らの喜びも、悲しみも、希望も、絶望も、全てがこの身に刻まれている」
「陽の光も、激しい雨も、凍える雪も、暴れる風も、全てが記憶だ」
「記憶は、眠りを許さないのだ」
橋の表面に浮かび上がる微細な亀裂が、まるで無数の目であるかのように、過去を見つめているようだった。
ヨシダ氏は、橋の重い記憶に、深い同情を覚えた。
彼は橋の肩を撫でるように、手すりにそっと触れた。
数週間が過ぎた。
ヨシダ氏は夜な夜な橋と対話した。
橋はますます弱々しく、しかし明確に、安息を求めた。
「解放されたい。この終わりなき記憶の連鎖から」
「ただ、静かに、深く、眠りたい」
ある満月の夜だった。
ヨシダ氏はいつものように橋の中央に立っていた。
橋のあちこちから、今までで最も大きな呻きが聞こえた。
それは、深い溜め息のようであり、同時に決意を秘めた声のようでもあった。
橋の石畳が、微かに、しかし確かに震え始めた。
まるで、長い眠りにつく前の最後の身震いのように。
橋は囁いた。
「ありがとう、ヨシダ。これで、ようやく」
「もう、終わりにする」
その声は、次第にかすれていった。
ヨシダ氏の足元から、微細な塵が舞い上がった。
翌朝、ヨシダ氏が橋へと向かうと、そこには何もなかった。
川は穏やかに流れ、橋が架かっていたはずの場所には、ただ虚空が広がっていた。
橋は、自らその形を解き放ち、無数の記憶とともに、深い眠りへと消えていたのだ。
それは、誰にも邪魔されない、永遠の安息だった。
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