K氏は常に漠然とした不安を抱える男だった。
大きな心配事ではない。
些細な疑念が、常に彼の心を覆っていた。
プロジェクトは成功するのか?
友人は本当に信頼できるのか?
昨夜の夕食の選択は正しかったのか?
ある夜、あてもなく街を歩いていた彼は、路地裏の古ぼけた店に吸い込まれた。
看板もない、ひっそりとした骨董品店だった。
店の中は埃っぽく、奇妙な品々で溢れていた。
その店の奥に、黒曜石のような縁を持つ古めかしい鏡が置かれていた。
奇妙な引力があった。
店主は、痩せこけた老翁だった。
「おや、珍しい。この鏡に興味がおありで?」
K氏は黙って頷いた。
「これは、単なる鏡ではありませんよ」と老翁は囁いた。
「全てを映し出すのです。過去も、現在も、未来も、心の奥底も、あらゆる真実を」
K氏は躊躇した。
知りたくない真実もあるだろう。
だが、彼の内なる不安が囁いた。
「全ての、ですか?」
「ええ。あなたに必要な情報は、全て」
K氏はその鏡を購入した。
それなりの値段だったが、長年の不安から解放されるなら安いものだ。
アパートに戻ったK氏は、鏡を壁に立てかけた。
深呼吸をして、ゆっくりと鏡の前に立った。
自分の顔は映っていない。
鏡面は、深淵な闇のようだった。
やがて、その闇の中に映像が浮かび上がった。
それは、彼が今抱える仕事のプロジェクトの結末だった。
拍子抜けするほど平凡な成功。
次に、彼の友人が誰にも言わずに密かに続けていた趣味が映し出された。
彼の抱いていた裏切りへの疑念は、ただの思い過ごしだった。
恋人の浮気を心配していたが、鏡は彼女の、彼への変わらぬ愛情を映し出した。
そして、二人が迎える、ごく普通の老後の姿まで。
K氏は息をのんだ。
彼の人生のあらゆる疑問が、次々と解答されていく。
未来の病気、些細な口論、道端で拾う小銭、忘れていた過去の出来事。
全てが詳細に、そして余すところなく映し出された。
しかし、K氏の胸には安堵よりも、奇妙な虚無感が広がっていった。
知るべき「全て」が、あまりにも平凡だったからだ。
劇的な悲劇もなければ、輝かしい成功もない。
彼の人生は、予測可能な、退屈な線の連続だった。
未来のあらゆる喜びは、知ることでその輝きを失い、あらゆる悲しみは、知ることでその衝撃を失った。
K氏はもはや、何に対しても興味を持つことができなかった。
驚きがない。
発見がない。
全ては既に、彼の手のひらにあった。
いや、違う。
全ては、鏡の中にあった。
K氏は鏡をじっと見つめた。
鏡は、ただ静かに、彼のありふれた未来を、永遠に、淡々と映し続けていた。
それは、彼が最も恐れていた「悪夢」だったのかもしれない。
彼が探し求めていた「全て」とは、彼の人生が、いかに退屈なものかという真実だったのだ。
そして、その真実を知ってしまった今、彼はもう、何も期待できなくなった。
このままで良いだろうか。
K氏は自問した。
しかし、彼には答えが分かっていた。
鏡は既に、彼のこの問いと、その後に彼がとる全ての行動と、その行動がもたらす全ての結末を、詳細に映し出していたのだ。
それが、鏡の最も残酷な真実だった。
K氏は、自分の人生の結末まで知り、全てを諦めて、ただそこに立ち尽くした。
鏡は、彼の人生が、永遠に彼の目の前で繰り返されるだけの、退屈な幻影であると告げていた。
そして彼は、知ってしまった。
この鏡の示す「全て」とは、まさに、彼の平凡で、予測可能な、何の変哲もない、そして、変えようのない人生そのものだったのだ。
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