K氏は書斎にいた。
いつも通りの昼下がり。
薄手のカーテンから柔らかな光が差し込み、埃の粒子が踊っていた。
机の上には、未完成の原稿用紙が積み重なっている。
その時、壁に異変が起きた。
長年見慣れた白い壁に、突如として一枚の木製の扉が浮き上がったのだ。
古びたオーク材で、真鍮の取っ手が鈍く光っている。
絵画のように静かに、しかし確固たる存在感でそこに現れた。
K氏は驚かなかった。
むしろ、長い間待ち望んでいたものに出会ったかのように、ごく自然に椅子から立ち上がった。
それはまるで、予定されていた来客を迎えるような動きだった。
扉の横には、小さな銘板が取り付けられている。
『こちらへ。あなたの物語は、ここから始まります』
無機質な文字が、K氏の目に入った。
K氏は迷わず取っ手に手をかけた。
ひんやりとした感触が指先に伝わる。
軋む音を立てて扉が開くと、そこは想像とは全く違う空間だった。
無限に続くかのような広大な書庫。
天井まで届く本棚には、あらゆる種類、あらゆる装丁の本が隙間なく並んでいた。
K氏は書庫の中へと足を踏み入れた。
一歩進むごとに、空気の密度が変わるような感覚があった。
本棚の背表紙を目で追っていく。
見慣れない題名が続く中に、ふと、K氏自身の名前を見つけた。
『K氏の物語』。
何冊もの巻に分かれて並んでいる。
K氏は一番新しい巻を手にとった。
指先で埃を払い、ゆっくりとページを開く。
そこには、今まさにK氏が体験している出来事が、詳細に記述されていた。
『K氏は書斎にいた。いつも通りの昼下がり……』
驚きよりも、奇妙な納得感がK氏を包み込んだ。
ページをさらにめくる。
物語は淡々と続き、K氏の過去が綴られている。
そして、未来へと続く章が近づくにつれて、ページは空白が増えていった。
最終ページに目を落とす。
そこは一面の白。
しかし、最終行の手前、ごく小さな文字でこう記されていた。
『K氏は今、この台本の読者に気づいた』
K氏は顔を上げた。
書庫の壁は消え、無限の空間が広がっている。
その向こうには、数えきれないほどの眼差しがK氏を見つめていた。
彼らは、K氏が手に持つ本を、貪るように読んでいる。
K氏がハッと息をのむと、手にしていた本が、ページが、そしてK氏自身の体が、光の粒となって崩れていった。
全てが消え去った後、元の書斎の椅子には、K氏が座っていた痕跡だけが残された。
そして、K氏の原稿用紙の最後のページに、新たな一文が浮かび上がった。
――今、この物語を読んでいるあなたこそが、K氏である。
#ショートショート#毎日投稿#AI#ファンタジー系#昼
コメント