K氏は真夜中の街を歩いていた。
冷たい空気がシャツの隙間から滑り込む。
古びた時計塔が、月光の下で異様な存在感を放っていた。
友人H氏から聞いた奇妙な話が、頭の隅で渦巻いている。
あの時計塔の最上階で、真夜中に放たれた言葉だけが、現実になるという。
K氏は半信半疑だった。
だが、H氏の興奮した声が耳に焼き付いて離れない。
「試してみるかい?」
H氏の誘いに、K氏は頷いた。
二人は軋む階段を上り、最上階の部屋へと足を踏み入れた。
そこは、巨大な歯車と精密な機構がむき出しになった空間だった。
時を刻む重厚な音と、秒針の規則正しい音が、耳朶を打つ。
真夜中の零時を告げる鐘の音が、ゴォン、と響き渡った。
H氏が口を開いた。
「以前、私はここで『コイン一枚』と呟いたんだ。
すると、本当に床に落ちていた。
だが、『大金が欲しい』と願っても、何も起こらなかったね」。
H氏の顔に、諦めと、わずかな期待が入り混じった表情が浮かんだ。
「どうやら、真に心が宿った言葉でなければならないらしい。
欲や虚栄は、この場所では無意味だ」。
K氏は、試すことにした。
最初は冗談めかして、「鳥のさえずりを」と呟いた。
すると、時計塔の重い機構音の中に、かすかに、しかし確かに鳥の声が響いた。
K氏の背筋に、冷たいものが走った。
彼は次に、心の中で長年願っていたことを口にした。
「失われた友情の再会を」。
しかし、何も起こらない。
時計塔の音だけが、変わらず響いている。
H氏が首を振った。
「それは、お前の心に巣食う『欲』だ。
真の言葉とは、もっと本質的なものだ。
お前自身の中にある、純粋な願望を見つけるんだ」。
K氏は目を閉じ、深く呼吸した。
己の内面と向き合う。
欲望を手放し、虚飾を剥ぎ取った先に、何が残るのか。
沈黙が、部屋を満たした。
そして、静かに、しかしはっきりと、たった一言を発した。
「無」。
その瞬間、時計塔のすべての歯車が、一斉に停止した。
秒針が、ピタリと止まった。
世界から、あらゆる音が消え失せた。
時計塔の音も、H氏の呼吸音も、K氏自身の心臓の音さえも。
彼らは、互いの顔を見合わせた。
口を開いても、空気の揺れがあるだけで、音は出ない。
K氏が発した「無」という言葉が、言葉の持つすべての力を、そして世界そのものの存在を、究極の無へと還元したのだった。
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