アサノはデパートの裏口をくぐった。
まだ夜明け前。
外は深い青色に染まり、地面は朝露でしっとりと濡れていた。
湿った空気が肌に触れる。
警備員はいつものように無言で頷き、消え去った。
彼だけが、この巨大な消費の殿堂の、まだ息を潜めている姿を知っている。
静寂は、時折聞こえる空調の低い唸り声で破られるだけだった。
売場へ向かう廊下を歩く。
ショーケースのガラスは、清掃員の手によって既に磨き上げられ、薄暗い中でもきらめきを放っていた。
開店まであと二時間。
彼は自分の持ち場であるアクセサリーフロアへと向かった。
同僚のミナミが既に商品の配置を始めていた。
「おはよう、ミナミ」
アサノは声をかけた。
「おはようございます、アサノさん。今日も早朝からですね」
ミナミは型通りの笑顔を向けた。
いつもの朝だ。
そう、いつもの朝のはずだった。
アサノは陳列された指輪の埃を拭いながら、ふと窓の外を見た。
空の色が、変わらない。
夜明け前の深い青のままだ。
「ミナミさん、今何時ですか?」
アサノは尋ねた。
「ええと……、五時半ですね。開店まであと一時間半、といったところでしょうか」
ミナミは首を傾げた。
彼らは既に三十分以上、作業を続けている。
体感では、もっと時間が経っているように思えた。
数分後、再び窓の外を見る。
空の色は変わらない。
外は朝露に濡れたままだ。
フロアマネージャーのオオタが巡回に現れた。
彼はいつも通り、厳しく商品配置をチェックする。
「オオタさん、すみません。なんだか、外の時間が止まっているような気がするのですが」
アサノは恐る恐る口にした。
オオタは一瞥もせず答えた。
「馬鹿を言え。時計は正確に動いている」
だが、一日が過ぎ、また一日が過ぎても、外の風景は変わらなかった。
毎日が同じ「夜明け前」で始まる。
朝露は乾くことがなく、空の深い青は退屈なほどに同じだった。
アサノはミナミと目を合わせた。
ミナミの顔から、営業用の笑顔が消えている。
「また朝ですね、アサノさん」
ミナミが呟いた。
他の従業員たちも、次第に同じ異変に気づき始めた。
誰もが同じ会話を繰り返し、同じ動きを繰り返す。
それはまるで、時間が永遠に同じ一点を繰り返しているかのようだった。
アサノは、ふとデパートの壁に目をやった。
開店を告げる大きなデジタル時計が、正確な時刻を表示していた。
だが、その数字は、彼らの認識する時間とは乖離し続けていた。
ある日、アサノはデパートの入り口のガラスドアに近づいた。
外は朝露に濡れたまま、誰もいない通りが広がる。
指をドアに触れると、ひんやりとした感触が返ってきた。
その時、ドアの向こうから、別の声が聞こえた。
「お客様、いらっしゃいませ。本日も当デパートの『永遠の朝』へようこそ」
声は、外の朝露に濡れたガラスに、まるで染み込むように響いた。
アサノは振り向いた。
そこには、見慣れない男が立っていた。
男は清潔な制服をまとい、胸には『時間管理部』と書かれたバッジをつけていた。
男はアサノの背後にいたミナミやオオタを一瞥し、そして再びアサノに視線を戻した。
「皆様には、この『開店前の静寂』を維持していただいております。当デパートでは、お客様が安心して日常を忘れられるよう、特別な時間を提供しているのです。つまり、この『朝』は、お客様にとって最高のショーケースなのです」
アサノは言葉を失った。
外の朝露が、ガラスの内側からゆっくりと滲み出してくるように見えた。
彼らは、デパートに展示された、生きた標本だったのだ。
永遠に続く開店前の、完璧な朝を演じ続けるために。
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