K博士は、深夜の観測室に一人でいた。
壁一面に並ぶ巨大なスクリーンには、絶えずデータが流れ落ちていた。
それは、宇宙の深淵から届く観測値であり、地球上で生成されるあらゆる情報の集積だった。
まるでデジタルな雨のように、無数の光の粒子が上から下へと降り注いでいた。
K博士は冷めたコーヒーを一口飲んだ。
いつもの光景だった。
淡々とした日常の中に、かすかな倦怠感が漂う。
その時だった。
一つの光の粒が、画面の隅で、下から上へと逆流した。
K博士は目を凝らした。
気のせいかと思ったが、二つ、三つと、逆流する粒子が増えていく。
やがて、画面全体が異様な光景に変わった。
それまで滝のように流れ落ちていた情報が、一斉に逆さまに昇り始めたのだ。
まるで、重力法則が反転したかのように。
星々が空へと舞い戻り、川が源流へと遡るかのようだった。
K博士は冷静に、計測器の数値を記録した。
ディスプレイ上の記録データは、まるで動画が巻き戻されるように、過去へと遡っていく。
事件の顛末は始まりに、結果は原因に、そして観測された事実は、未観測の状態へと戻っていく。
情報は消滅するのではなく、ただ「無に帰っていく」ように見えた。
彼はこの現象を「データの潮汐」と名付けた。
しかし、その壮大な逆流の背景にある原理は不明だった。
何時間も画面を見つめ続けるうち、K博士は奇妙な切なさを感じ始めた。
画面から消えていく一つ一つのデータが、かつての誰かの喜びや悲しみ、あるいは何かの達成や失敗の証だったはずだ。
それらが無に帰っていくことに、漠然とした喪失感を覚えた。
観測室の空気は、時間が経つにつれて、奇妙に希薄になっていった。
頭の奥に、鈍い痛みが走る。
K博士は自分の手のひらを見た。
掌線が、僅かに薄くなっている気がした。
そして、彼の脳裏から、記憶が霞のように昇っていくのを感じた。
昨日の夕食は何だったか。
彼の研究テーマは。
そもそも、自分はなぜこの観測室にいるのか。
彼は鉛筆を手に取り、研究日誌を開いた。
そこには、何の文字も書かれていなかった。
ただ、真っ白な紙があるだけだ。
K博士は、それが何のために開かれたものなのか、思い出せなかった。
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