シュレディンガーの指紋

毎日ショートショート

朝、Kは静かに目覚めた。

枕元のスマートフォンを手に取る。

 

いつものようにニュースアプリを立ち上げる。

今日の天気は晴れ、と表示された。

しかし、画面を更新すると、瞬時に「雷雨」に変わった。

 

Kは目を凝らした。

再読み込みを試みる。

今度は「曇り時々晴れ」。

その次の瞬間には「雪」と表示される。

 

「壊れたのか?」

Kは首を傾げた。

妻のLがキッチンで朝食の準備をしている。

「今日の天気、どうなってる?」Kは尋ねた。

Lはフライパンから顔を上げずに答えた。「晴れてるわよ。いい天気。」

 

Kは自分のスマホの画面をLに見せた。

Lは一瞥し、「だから、晴れてるってば」と呆れたように言った。

Kの画面では、たった今「暴風」と表示されたばかりだった。

 

朝食のトーストが、一口食べるたびにクロワッサンになったり、ご飯になったりした。

Kは皿の上のパンを見つめたが、特に驚きはしなかった。

 

会社に向かう電車の中。

Kはニュースサイトを閲覧した。

「景気、過去最高を更新!」という見出しが踊る。

次の瞬間、「未曾有の大不況、経済崩壊寸前」に切り替わった。

SNSのタイムラインも混乱していた。

友人Mの投稿が、見るたびに内容を変える。

「新しい仕事が決まった!」と表示されたかと思えば、「失業した…」となる。

写真も、笑顔のMと、うつむくMが交互に現れた。

 

Kは自身が狂ったのではないかと考えた。

しかし、彼の意識は明瞭だった。

脳裏に、量子力学で習った「シュレディンガーの猫」がよぎった。

箱の中の猫は、観測されるまで生きている状態と死んでいる状態が同時に存在するという。

まるで、情報が、いや、世界そのものが、観測されるまで複数の可能性を同時に内包しているかのようだった。

 

通勤電車に乗ったはずが、窓の外の景色は、いつの間にか見慣れないバスの車窓になっていた。

Kは視線を窓の外に転じ、過ぎ去る風景をただ眺めた。

 

オフィスに着くと、部長のNがKに声をかけた。

「K、今日のプレゼン、頼むぞ。」

Kは頷き、自身のパソコンを開いた。

データもまた揺らいでいた。

売上グラフは、右肩上がりの成功を示したり、真っ逆さまに落ち込んだりした。

Kはどちらを信じるべきか、いや、どちらを提示すべきか、判断に迷った。

いや、迷う必要はないのかもしれない。

 

Kは、不確かな情報をそのまま語った。

「弊社の売上は、あらゆる可能性を内包しております。」

N部長は首をひねったが、特に咎めることはなかった。

他の社員たちには、単に「順調」としか聞こえていないようだった。

 

同僚と話していると、彼らの言葉が、Kには肯定的に聞こえたり、否定的に聞こえたりした。

Kはただ頷き、曖昧な返事を返した。

 

数日が過ぎた。

Kの世界は、常に流動的だった。

彼の見る空は、青と灰色が同時に存在し、街を行く人々も、表情や服装が千変万化した。

Kはもはや何が本当で何が幻想なのか、区別する必要すらなくなった。

それは混乱ではなく、むしろ解放だった。

 

だが、Kはもはや混乱しなかった。

むしろ、ある種の「清々しさ」さえ感じ始めていた。

一つの真実に縛られることのない、究極の自由。

何を選択しても、それが「正しい」可能性も「間違い」の可能性も同時に存在するのだ。

彼の行動は、特定の真実に基づくものではなく、その瞬間、彼の観測によって「確定」された可能性の一つに過ぎなかった。

 

ある朝、Kはスマートフォンを手に取った。

画面には、何の表示もなかった。

ただの黒い鏡面だった。

彼は指紋認証センサーに親指を置いた。

しかし、センサーは反応しなかった。

画面に「ユーザー情報がありません」と表示された。

 

Kは、もはや自分がKである必要がないことに気づいた。

彼の指紋も、また、無数の可能性の一つに過ぎなかった。

さて、今日は何になろうかな。

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