最後の顧客

毎日ショートショート

アキヤマ氏は、最近、常に疲労感を覚えていた。

眠りも浅く、心は常に重かった。

仕事のプレッシャー、人間関係の軋轢、未来への漠然とした不安。

何かを変えなければ、そう漠然と思っていた。

 

ある晩、街の片隅、裏通りにひっそりと佇む小さな看板を見つけた。

「マダム・ゼットの相談所」と書かれていた。

占いではない。

だが、その文字には、疲弊した魂を吸い寄せる奇妙な引力があった。

 

錆びたドアノブを回し、扉を開けると、線香のような、あるいは古い紙のような、独特の香りが漂った。

店内は薄暗く、埃っぽい。

奥には、痩せた女が座っていた。

顔には深い隈があり、目は窪み、まるで何年も眠っていないかのようだった。

マダム・ゼット、と呼ばれている女だった。

 

部屋の隅には、奇妙なものが放置されていた。

片方だけの男性用革靴。

読みかけの新聞。

飲みかけのコーヒーカップ。

そして、誰かの置き忘れた、壊れた眼鏡。

どれもが、不自然なほど静かに、そこに忘れ去られていた。

 

「どうなさいましたか、アキヤマさん」

マダム・ゼットの声は、ひどくかすれており、微かな呼吸音すら聞こえないようだった。

「漠然とした不安、でしょうか。何をしても満たされない。常に何かに追われているような、この、重苦しい感覚が…」

アキヤマ氏は、自身の言葉の曖昧さに戸惑った。

 

マダム・ゼットは、じっとアキヤマ氏の顔を見つめた。

その目は、闇そのもののようでありながら、どこかすべてを見透かすような光を宿していた。

「わかります。重荷ですね。それは、存在の重荷です。人生を生きる上で、誰もが背負うもの」

彼女はそう呟くと、ゆっくりと手のひらを差し出した。

 

「さあ、この椅子に座って、ただ感じてください。すべてを解き放つ感覚を。私が、その手助けをいたしましょう」

アキヤマ氏は、促されるままに古い木の椅子に腰掛けた。

途端、体の奥底から、鉛のような重みが抜けていくのを感じた。

それは、これまで感じたことのない、異常なほどの解放感だった。

 

不安が消え、焦燥感が薄れ、思考すらも停止していく。

心が空っぽになり、まるで体から魂が抜け出て、空気のように軽くなるような感覚だった。

彼女は、薄汚れた窓の外の、ぼんやりとした月を見上げた。

その光の中で、自分の手が、かすかに透けて見えることに気づいた。

やがて、腕全体が、そして脚が、徐々に視界から消えていく。

 

「不思議でしょう? ここでは、人は、文字通り、存在の重荷から解放されるのです」

マダム・ゼットの声が、どこか遠くから聞こえた。

「それらすべてを捨て去って、ただ純粋な無になる」

 

アキヤマ氏の顔には、安堵と、この上ない平静が浮かんでいた。

これほど安らかな気持ちは、生まれて初めてだった。

体は完全に透明になり、やがて、その形すらも曖昧になっていく。

彼女は、自分が消えていくのを、ただ受け入れた。

重荷から解放され、虚空へと溶けていく感覚は、恐怖ではなく、至福だった。

 

最後に残ったのは、アキヤマ氏が座っていた椅子の上に、まだ湯気を立てている、飲みかけのコーヒーカップだった。

そして、店の隅には、また一つ、忘れ去られた存在の証が加わった。

 

マダム・ゼットは、ゆっくりと目を閉じた。

しかし、すぐに開いた。

彼女は、今日も、まだ眠れない。

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