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ふしぎ

名づけられなかった風

第 125 話 / 全 126 話 2026.10.13 19:12 配信 約4分で読める
名づけられなかった風

山頂の気象観測所に、人間は彼女ひとりしか残っていない。観測は十年前に自動化され、風向風速計が回り、日照計と雨量計が数値を積み上げていく。彼女の仕事は、機械を掃除することと、毎朝一枚の報告書に署名することだ。異常なし、と印字された用紙に、名前だけを書く。用紙は誰にも読まれず、段ボールの箱にしまわれていった。

標高千九百メートル。この尾根は昔から風の強い土地で、測風塔の立つ稜線は「風の銀座」と呼ばれていた。発電会社が何年もかけて風を測り、地図に区画を引いて、山を買った。風は資源になった。測られ、区画され、見込みとして売り買いされる。都会の企業はきれいな電気を欲しがり、山の風は証書になって流れた。彼女が着任したとき、稜線にはもう風車が並んでいて、晴れた日には白い翼が一列に回るのが窓から見えた。

この勤務地を志願したとき、だれも彼女を引き留めなかった。標高が高く、冬が長く、観測は自動。合理的な人間から順に山を降りていった。彼女は自分でも理由をうまく言えないまま、空が測られる場所のいちばん近くにいたかったのだと思う。

最初の異変は、風速計の数字に出た。一日の平均が、ごく少しずつ小さくなっていく。彼女は風杯の汚れを落とし、軸に注油し、予備の測器と取り換えた。数字は元に戻らなかった。隣県の観測所に問い合わせると、返事は短かった。全国的に、同じ傾向です。

本部からは「一時的な静穏傾向」という通達が来た。風車の回転は鈍り、発電量は目に見えて減った。電気代は上がり、町の工場は操業を縮めた。新聞の片隅に「風不況」という言葉が生まれ、やがて見出しのほうへ移っていった。測量隊がまた山に上がってきて、こんどはもっと上空の風を計っていった。低い風から順に静かになっていく。それが何を意味するのか、彼女はまだ確かめないことにしていた。

物置で、彼女は昔の観測簿を見つけた。五十年前の人間が、手書きで毎日の風を書き残していた。数字が大きい。冬のページには、記録計のペンが振り切れた日の印が、いくつも並んでいた。彼女は自分の手帳に、いまの無風の時間帯を書き足していった。機械が壊れたときの備えだと、自分に言い聞かせながら。ページをめくるほど、静かな時間は長く、まっすぐに伸びていった。

風が、時間を守るようになった。夕方には早々と凪いで、朝は日が高くなってから、遅れて吹き出す。まるで土曜のように、丸一日休む日もはじまった。点検に来た年配の技術員は、止まった風車をしばらく眺めてから、コーヒーを一口飲んで言った。風は故障じゃないんですよ。どこを検査しても、壊れていない。それ以上、彼は何も言わなかった。

名づけられなかった風 挿絵

台風の季節が来た。海は熱をためたまま、なまぬるく光って、ひとつも渦を巻かなかった。台風の名前は、十四の国と地域が持ち寄った百四十個で、順番に使われる。その夏、番は一度も回らなかった。彼女は名前の一覧を印刷して、窓辺で端から読んだ。点呼のように。どの名前も、今日も来なかった。

無風の朝、山頂の空気は水あめのようだった。雲海が谷を埋め、一枚の鏡になって、何時間も動かない。朝日がその上を渡っていく。そのとき彼女は、窓ガラスに映る自分の口元がゆるんでいるのに気づいた。風のない世界は、まぶしいほどに整っていた。彼女は観測所に戻り、異常なしに署名する。様式のどこにも、静けさを記入する欄はなかった。

下の町では会議が重ねられ、大気を人工的に動かす計画の予算が通った。海の上で何かが試され、失敗だけが整然と積み上げられていった。新しい風車は、前のものより高く、細い。遅くなった風の、まだ残っている高さを取るためだ。風が静かになるほど、手は上へ伸びた。

彼女にできることは、何もなかった。ただ、世界の静けさを、彼女は誰よりも早く受け取った。風速計が昨日より小さな数字を出すたび、それを最初に知るのは彼女だった。手帳を閉じるとき、その中に、自分でも確かめたことのない願いがしまわれている気がした。

十月の朝、風速計は〇・〇を示したまま、一日動かなかった。雲海は鏡のままで、稜線の風車は百本、みな直立している。風の止まった風車は、ただの柱だ。机の引き出しでは、使われなかった百四十の名前が、次の季節を待っていた。

彼女は報告書に名前を書いた。異常なし。欄外は、白いままだった。

風は、いつまでも働かされるものなのだろうか。

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