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あたたかい海の最終回

第 118 話 / 全 118 話 2026.10.11 07:15 配信 約4分で読める
あたたかい海の最終回

臨海ホールの客席に、千の拍手が落ちた。彼は調整室のガラスの内側で、卓のフェーダーに指を置いたまま動かなかった。深夜ラジオの公開収録。四十年続く番組の、たぶん最後の夜だった。

彼の仕事は、届いた投稿はがきを選ぶことである。週に五百枚。放送で読まれるのは十枚。十五年、そうしてきた。冠スポンサーは、昔は酒の会社、その前は楽器の会社、今は資産運用の会社だった。はがきの選び方は、いつのまにか決まっていた。穏やかで、無害で、笑いに落としやすいもの。選ばれた作者には、スポンサー名の入ったノートが贈られた。彼の意見は、どこにも反映されなかった。

彼には、知られたくない習慣があった。ペンネーム「浦島」で、はがきを書くことだ。十五年で七百枚。読まれたことは、一度もない。先月の一枚は、こう書いてあった。貯金は、穴の開いたバケツで水をくむ作業に似ている。だれが、どこに穴を開けたのか。音楽の合間に、そっと教えてほしい。それは選ばれず、「たけのこの里ときのこの山と、どちらが偉いか」というはがきが選ばれた。彼は一度も、自分のはがきを選んだことがなかった。それだけが、彼の決めていたことだった。

春から、この時間帯は変わる。局の廊下に新しいポスターが貼られていた。あなたにだけ、届くラジオ。AIが一人ひとりの好みを学んで、その人だけの声で、その人だけの話をする番組になるという。それと引き換えに、誰にでも届いた番組がひとつ消える。だから今夜の客席は埋まった。缶バッジをつけた年配の男女と、親に連れられた子ども。四十年分の聴取者が、ひとつのホールに入っていた。人は、終わるものを見に来るのが好きだ。

気づいたのは、たぶん彼だけだった。三か月ほど前から、海辺の町からのはがきが増えている。はじめは月に三枚、今週は四十一枚だった。夜の海があたたかい。足首まで浸かると、ぬるま湯のようだ。堤防の下の波に、光の粒が混じっている。船に乗っているというリスナーは、南の海で生まれたあたたかい水の塊が、ゆっくりとこちらへ来ている、と書いてきた。港の魚は、もうほとんどいないとも。彼は局の倉庫で見つけた古い地図にピンを打った。ピンは太平洋の岸に沿って、まっすぐに並んだ。列は北のほうへ、まだ伸びていた。番組では、それらは「ふしぎな景色」のコーナーで読まれ、やさしい笑いになった。彼はピンのあいだに線を引かなかった。線を引いて誰かに見せたら、消されそうな気がしたからだ。

本編が再開した。パーソナリティは、四十年ものあいだ、同じ深夜に同じ声で話しつづけてきた老人だった。老人は膝の上に、局から運ばせたという段ボール箱を載せていた。選ばれなかったはがきの箱だった。

「最終回だけの企画です。これは選んだ人間が選ばなかったはがきですから、選んだ人間に責任はありません」

あたたかい海の最終回 挿絵

客席が笑った。老人は箱の中をかきまわして、一枚引き抜いた。それから、ゆっくり眼鏡を外した。

「浦島さんの、はがきです」

ガラスの内側で、彼はフェーダーから手を離した。老人は読んだ。

「海があたたくなりました。役に立たないものばかりが、光っています。浦島太郎は竜宮城から帰って、ぜんぶ変わってしまった国を見ました。けれど、ひとつだけ変わらないものがありました。だれも、なにも言わなかったことです。このはがきが読まれる夜、僕は海を見ています。世界は、静かに、やり直されるところへ向かっているようです。長いあいだ、ありがとうございました」

客席は、笑わなかった。千の人が、いっせいに海のほうを向いた気がした。窓の外は、もちろんただの暗い浜だった。老人が番組の名前を読み上げ、四十年分のあいさつを済ませた。彼はフェーダーを下ろした。放送中のランプが消えるところを、十五年で何千回も見てきたが、今夜のそれは、いちばんゆっくり消えた気がした。

片付けを終えた彼は、ホールの裏木戸から浜に下りた。十二月の海のはずだった。寄せる波の縁が、うっすらと青く光っていた。靴を脱いで立つと、砂はぬるかった。水平線のこちら側で、夜の海が、言いそびれた何かを光で言おうとしていた。

彼は上着の内ポケットから、白いはがきを取り出した。いつも、一枚だけ持ち歩いている。宛名の欄に、今夜終わった番組の名前を書いた。それから、しばらく海を見ていた。七百一枚目を、彼は終わるものにあてて書くのか、始まろうとしているものにあてて書くのか。あなたなら、どちらに書くだろうか。

夜
毎日ショートショート編集部

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