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潮干に精算は来ない

第 92 話 / 全 101 話 2026.10.04 13:04 配信 毎日ショートショート編集部
潮干に精算は来ない

海の家は、夏で飽きるまで稼いで、冬は誰も来ない。俺は閉店した店番として、ここに泊まっている。十二月の浜は金にならない。それでいいと思っていた。あの朝まで。

この浜は、三年前からキャッシュレス特区になった。傘、浮き輪、シャワー三分、砂浜に座るスペース一畳。すべてアプリで買う。湯冷めより早い温度で、海が値段に変換される。

夏の客は文句を言わなかった。犬の顔のコイン、DOGEをはじめとする、笑いながら生まれた金が、この浜にも流れ込んでいた。誰も犬を飼っていないのに、犬が儲けている。

岬の白い家に住む人物だけが実在した。犬の絵文字をアイコンに、十億を動かすと噂される男。俺は一度だけ会った。無料の日よけの下で、自分の資産の波を見て、満足そうに微笑んでいた。

十二月十六日の朝、浜に犬がいた。

柴犬だった。風呂屋の看板にも載っていない、本物の毛並みをした犬。レンタル浮き輪の山の上で、尻尾を隠して寝ている。近づいても起きない。ここは誰のものでもない場所だと、犬は知っていた。

スマートフォンが鳴いていた。精算待ち、精算待ち、精算待ち。世界中の犬の顔が、同時に吠えたのだ。駅前の換金所では、数字が消えていく音がした。氷が溶けるより静かに。

俺は海の家のドアを開けた。暖房なしの店内は、夏の匂いが薄い霜になっている。レジ、全自動の、銀行の支店のような無人の機械が、画面を点滅させていた。清算不能。履歴を消去しています、と。

驚くべきことに、俺は悲しくなかった。

潮干に精算は来ない 挿絵

浜に出ると、砂浜が値段を失っていた。一畳三百円の区域線は、昨夜の潮に半分洗われ、後半もさほど意味をなしていない。海水は引き続き塩辛く、空は無料の青さで、冬の光は誰の資産にも登録されていなかった。

岬の家から黒煙が上がったかと思ったら、ヨットだった。エンジンをつけたまま沖へ出て、小さく、小さくなった。犬の顔をした金が沈む音を、あの男はこの海で聞いているのだろうか。

昼過ぎ、老人が犬の散歩に来た。アプリを開こうとして、諦めて、ポケットに戻した。笑っていた。犬は犬で、砂を掘っていた。何も売られていない浜は、五十年ぶりに人に近かった。

俺は海の家の前に出してある、預り金制の薪ストーブを焚いた。無断だ。けれど火の値段をつける機械は、まだ消去作業の途中で眠っていた。温まる手が、合法かどうかは、誰にも聞けない。

日が落ちる頃、防波堤の灯りが一つ、点いた。

それは決済の中継塔だ。金融、観光、犬、すべてを束ねる、この浜の小さな神のような装置。画面は真っ白で、白い中に、何かが数え直されている。今までの海の価格を、今夜の潮に合わせて、と。

柴犬が起きて、防波堤を見た。低く、一回だけ吠えた。それは合図のようにも、ただの寒さにも聞こえた。

俺はサーバーの再起動が来るのを知っていた。どこかで、必ず誰かが復旧させる。砂浜に区域線が引かれ、犬の顔が微笑み、一畳三百円の世界が、何事もなかったように夏を迎える。

それでもこの夜だけは、海はまだ誰のものでもない。

冬の浜で、値札のない波が音を立てている。お金が戻ってきたとき、俺はこの店のレジを、もう一度差し込むのだろうか。差し込まないのだろうか。薪の火が爆ぜるのを聞きながら、俺はまだ、答えを持っていない。

夜
毎日ショートショート編集部

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