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ふしぎ

等高線は静かに伸びる

第 112 話 / 全 112 話 2026.10.09 07:15 配信 約4分で読める
等高線は静かに伸びる

印刷工場の夜勤は、一人で回している。用紙を替え、インクを確かめ、機械が唸りはじめたら、あとは刷り上がった紙の束をパレットに積むだけだ。発注データは夜のあいだに自動で届く。何を刷るかも、何枚刷るかも、システムが決める。彼に任されているのは、紙詰まりを直すことと、束を出荷の高さで止めることだけだった。広告、チラシ、閉店セールの案内。刷られた店の多くは、もう閉まっている。中身を見る必要もない。午前一時、二時と、刷りの音だけが工場を満たす。彼がただ一つ、直に手を触れて確かめるのは、月に一度届く山岳地図の版だけだ。市の北に連なる山々を二万五千分の一で収めた古いシリーズで、図の南の端に、この工場のある町がわずかに載っている。

入社した頃は昼の製版部にいた。写真植字が消え、版下が消え、製版部が消えた。若い連中は出ていき、彼は夜勤に残った。人が減って三年、話す相手は刷り上がりを受け取りに来るトラックの運転手くらいになった。山に登ったことは一度もない。登るなら、稜線ではなく、地図に破線で引かれた細い道からだと、ずっと決めていた。

その夜、地図の北東に、見覚えのない閉じた等高線があった。最初は刷版の汚れかと思った。ルーペで確かめると、線は正確に閉じ、標高千八百二メートルの数字まで打たれている。名前のない峰で、裾野をなめらかに引き、斜面には破線の道まで通っていた。彼は保管庫から旧版を引き出して重ねてみた。五版前、そこは空白だった。四版前、等高線がひとつ、小さく閉じた。三版前、それがふたつになり、破線がのびはじめていた。版を重ねるごとに、山は静かに高くなっていた。

問い合わせの欄に差分を報告すると、夜明け前に返事が届いた。該当の差分は確認されませんでした、と。地図の発行元は三年前に解散していた。データは配信のサーバーが抱えたまま、月に一度、改訂版を自動で送ってくる。発注は、紙の地図を買い続ける数軒の山の会からの定期便だけだった。以前、電話で誰かが言っていた。画面では等高線の間隔が読めない、指で高さを確かめたい年寄りばかりなのだ、と。彼はそれ以上、何も言わなかった。

等高線は静かに伸びる 挿絵

以来、彼は毎月一枚ずつ、その山の載った地図をロッカーにしまうことにした。等高線は版ごとに外へ広がり、稜線をのばし、谷を深くした。雪渓の記号が現れ、山小屋の印がひとつ、またひとつ増えた。ロッカーの束は、いまでは握りこぶしひとつぶんの高さになっていた。機械が唸るあいだ、インクの匂いのなかで、彼は旧版をめくり、山が育つ様子を眺めた。パレットの上では紙の束が少しずつ高くなっていく。工場の床に、二つの山が静かに盛りあがっていた。どちらも、誰の目にも留まらない山だった。

受注は減りつづけた。広告は画面のほうへ流れ、残った仕事は市外のオンデマンド印刷に移されていく。社内報の片隅に、来春の土地の売却が載った。古い輪転機は中古として海をわたることになり、行き先の港の名前を、彼は知らない。機械が運び出されれば、ここに残るのは平らな更地だけだ。

最後の発注データが届いた夜のことだった。件名は、例の山岳地図の最終版。この版でシリーズが終了し、データはサーバーから消去される——そういう備考が添えられていた。彼は問い合わせの欄を開きかけて、指を止めた。刷り上がった束から一枚を抜いて広げる。機械は最後の一束まで速度を落とさず、山の載った紙を生み出しては流していく。峰の標高は三千七百七十六メートルに達し、裾野は図の南の端まで張り出していた。いちばん外側の等高線の内側に、この工場の位置が入っている。破線の登山道は、町はずれから山腹へまっすぐのびていて、図の縮尺の上で、歩いて二時間ほどだった。

タイムカードを押して外へ出ると、東の空が白んでいた。冷えた鉄骨の稜線が、うすい金色に縁どられている。刷りの済んだ最終版は、明日、数軒の山の会へ届けられる。次の月から、届くものは何もない。もう誰かが、あの破線を歩いたのだろうか。彼はポケットの折り目を押さえて、北へ向かう道を歩きはじめた。地図の上では、この道はもう山の裾にある。空は晴れて、前方に山の影はない。あるのは、折り畳んだ紙の厚みだけだ。実在しない山に、登ることはできるのだろうか。

夜
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