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意外な結末

湯の向こうの誰か

第 107 話 / 全 109 話 2026.10.07 19:14 配信 約4分で読める
湯の向こうの誰か

日の出湯のいちばん最後の客は、いつも閉店三十分前に来た。「先生」と呼ばれるその老いた男は、洗い場のいちばん右端にタオルを掛け、湯船に肩まで沈み、誰にともなく文章を暗唱し始めるのだ。それは湧き続ける湯のような、切れ目のない句だった。

「朝の電車は、十万の沈黙を市の中心へ運ぶ。」「雨は、空が都会に勘定を済ませる音だ。」「街灯は、誰も夜を所有できないように植えられている。」どれも、私には一生かけても書けない句だった。最後の客を出したあと、私は洗い場を拭きながら、句を忘れないように口のなかで並べ直した。口に入れておかないと、句は湯気へ返ってしまう。

二十代のころ、文学賞に原稿を送ったことがある。返ってきたのは一枚の印刷された葉書だけだった。親の跡を継いでこの銭湯の主人になってから、私のなかの文字は止まった。いま書く文字は、帳場の仕切り伝票の数字だけだ。平日の夜もタイルは空しく鳴った。薪ボイラーのドラム缶は一日に四回満たされた。焚口の鉄の扉を開けて割り薪を投げ込むと、樹脂の匂いと爆ぜる音が浴場まで届いた。火箸で薪を組み替えるたびに、ドラム缶の唸りが低くなっていく。私ひとりで上げられる炎の大きさは、せいぜいボイラーの焚口ほどのものだった。

裏路地の向こうでは、マンションの塔が何棟も建っていた。クレーンの警戒灯が夜通し赤く瞬いている。この場所で立ち上るのは、湯気だけだった。

去年から、高校生の娘が週末の夜だけ手伝いに来ている。仕事はてきぱきとするくせに、閉店後はタオルを数えていると言って、いつまでも奥に残る癖があった。数える音は、灯りが消えるまで続いた。彼女は浴場の方をいっさい見なかった。

ある秋の夜、帳場のテレビで、新たに決まった受賞者が会見を開いていた。常連が「すごい時代になったもんだ」と言うかたわら、着替えて帳場を通るその老いた男が、こうだけ言った。「秋になると、世界はひとりを王にする。何億という言葉のしはらいが済んだことにするためだ。賞は、領収書なんだよ」男は五百円を札で支払い、夜のほうへ出ていった。戸がしまって、外の風が冬の匂いを運び始めていた。

なぜ書き残さないのかと、一度だけ訊いた。老いた男は湯のなかに顎を沈めた。「書かれた言葉は財産になる。相続され、課税され、棚に並べられて終わる」。暗唱は、流れに種を落とすように、偶然に託すやり方なのだと男は言った。「言葉は、湯気にたまたまいる者に選ばれる」翌夜も男は三十分前の開けっ放しの戸から入ってくる。私のいる洗い場の方を向いて、句を始める。

湯の向こうの誰か 挿絵

そんな夜のひとつだった。私が句を口のなかで追っていると、振り向かずに「落とすなよ」。何のことかは訊かなかった。鏡のなかで、唇だけが動く形が見えた。

変てこな反響を初めて耳にしたのは、春先の夜だった。脱衣所の若い女が髪を結びながら、連れの者に向かって「雨は、空が都会に勘定を済ませる音だ」と句をそっくり言ったのだ。どこで知ったのかと訊くと、女は首をかしげた。「え、ずっと前から知ってるんですけど」

翌月には、咳の最中にトラック運転手が「朝の電車は、十万の沈黙を」と言った。ある夜は歩道橋を渡る中学生の娘が「街灯は、誰も夜を所有できないように」と、句を鼻歌交じりにくぐった。誰もがそれを前から知っている歌であるかのように言う。誰も書いた人を訊かなかった。名乗って名を取れる場所は、どこにもなかった。

それを話して聞かせた夜、老いた男は遠い雨の音を聞くように目を細めた。「降り始めたな。終わりというより、祭だ」。湯気は、天井から下がったひとつの裸電球の光を浴びて、白く輝いていた。目に見えない句があたためられ、立ち上り、雲になって、遠くへ流れてゆくようだった。このままの形の世界が、いつか縁からほどけていくのなら、その音はたぶんこんな音だろう。

老いた男は、前触れもなく来なくなった。湯船は静かに温度を失い、ボイラーのパイロット火だけが奥で赤くうずくまって燃えていた。原稿も、手紙も、名前も残さなかった。街のどこかの誰かの口に、染み込んだ句だけを残して。

いくつかの夜ののち、私は男のいた湯船に代わりに入り、三年間盗んだ句を湯に向かって話し始めた。声は最初うわずり、やがて据わった。句は財産にならず、棚に並ばなかった。種である以上、落とし続けるしかなかった。

今夜も肩まで浸かり、句をひとつ並べて、湯気を待つ。言い終わった瞬間、白の向こう、ロッカーの陰から息をひそめる音がして、それから句の終わりを追う小さな声がした。灯りが消えるまで奥でタオルを数える、娘の声だった。

夜
毎日ショートショート編集部

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