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インクが星を数える夜

第 69 話 / 全 75 話 2026.10.02 19:07 配信 毎日ショートショート編集部
インクが星を数える夜

私の仕事は、同じものを何万枚も確かめることだ。今夜刷られているのは、星を背景にした高級時計の冊子で、表紙には日本橋の夜景が使われている。一冊あたりの値段は、私の月給より少し安い。

印刷機は呼吸を忘れた大きな動物のように、一定の間隔で紙を呑み、色を吐き出す。青、黒、銀。数万枚の冊子が、ほぼ同じ顔をして次へ次へと流れていく。私はその顔の中で、一粒ほどの違いを探す。

探せば探すほど、世界は正確に見える。三ミリのずれ、濃度の斑、髪の毛ほどのすり傷。それらは不良品と呼ばれ、プレスの底へ落ちて四角い紙屑になる。明日になれば、誰かの数字に記録される。だが、紙の中身を見る者はいない。

印刷を止めると損失になる。刷りすぎても損失になる。どちらが正しい量なのかを決めるのは、工場ではなく、遥か上の会議室だ。機械は正しさを知らない。知っているのは命令だけだ。だから、命令に従い続ける。世界がそれほど変わらないことも、よく知っているからだ。

二時を回ったころ、確認用の一枚に、刷版にはない星がひとつ出た。黒い表紙の右上、空白に近い濃紺の空に、小さな銀点だった。検査票には、異物混入の印をした。同じ星がもう一度出るとは思わなかった。

三枚目にも、七枚目にも、十七枚目にも現れた。場所は少しずつ違う。版は変えていない。紙も、インクも、機械の回転も、いつもと同じはずだった。それでも星は、指定のない場所に現れた。まるで、どこか遠い空を真似ているように。

休憩室の暦には、今夜がオリオン座流星群の極大日と印刷されていた。私は暦を眺め、それから紙の星を眺めた。点と点の位置は正確だった。小さすぎて誰も見ないような位置に、 tonightの星が落ちるべき道筋が、薄く並んでいた。

紙の上では、夜空が静かに裂けていた。銀色の筋は、流れ落ちる瞬間を数えながら消え、あとからまた別の筋を引いた。本物の空を切り取ったのではない。ただ、切り取られるはずだった未来を、印刷しているようだった。

インクが星を数える夜 挿絵

不良品の山は、小さく育っていった。同じ星は一枚としてなかった。機械は繰り返すためにある。だがその夜ばかりは、一枚ごとに異なる夜空を吐き続けた。検査の私が見逃せば、製品となる。見つければ、捨てられる。

誰かが私の横に立った。紙束を見て、何も言わなかった。別の者も近づき、指で星の筋をなぞった。作業は緩んだ。だが機械は止まらなかった。止める手は、どこにも伸びなかった。私たちはただ、同じ場所からはみ出したものを見つめていた。

私はずっと、こんな瞬間を待っていたのかもしれない。何万枚もの同じ顔の中で、世界が誤りを装って息をする瞬間を。仕事は正確さを求めるが、心の奥では、ずれを待っている。巨大な仕組みに、従うだけの私が見つけてしまった、小さな反逆を。

工場の窓の外には、雲と街の明かりの帳が下りていた。本物の星など見えない。見えるのは、光に照らされて白く濁った空だけだ。それなのに紙の上では、星が何千何万と落ちていた。おそらく、世の中で最も正確な流星群は、その夜の不良品だった。

四時過ぎ、表紙の日本橋に、奇妙な変化が現れた。増えた星の一筋が、橋と橋のあいだを横切り、高速道路の上を越えた。淡い銀の線は、そのまま消えたはずの川面を結ぶ橋に見えた。眼下の夜景よりも、紙の上のほうが、日本橋に近づいていた。

時計の広告は永遠を売る。宇宙の深さを、商品の背景に借りてくる。だが、その宇宙を正確に刷る機械が、広告の枠を少しだけ越えた。私たちは、売られていない夜空のほうを、いつまでも見ていた。機械が止まったのは、紙が尽きたときだった。誰かが止めたのではない。

明け方、不良品の束は段ボールに入れられた。通常なら、リサイクル業者へ渡る。私はその束から一枚だけを抜き、自分の作業着に挟んだ。届けられる何万冊の中には、今夜の星は含まれていない。世界は正確な模造品を受け取り、誤差の中にだけ本物を残した。

搬出口を開けると、夜の名残の冷気が入ってきた。雲の切れ間が、細い銀色に光った。一筋の星が、紙の上で見たどれとも違う道を落ちた。私は一枚の紙を押さえたまま、それを見上げた。明日、この工場では何が刷られるのか。そして世界は、いったいどちらを正しい版と呼ぶのだろう。

夜
毎日ショートショート編集部

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