午前九時前。
旧式の蛍光灯が唸る会議室には、朝特有の張り詰めた空気があった。
部長のS氏は、プロジェクターの準備を最終確認している。
課長のM氏は、淹れたてのコーヒーを一口すすった。
若手社員のKは、配布資料をきっちりと揃えていた。
定刻、会議が始まる。
S部長は力強くプレゼンテーションを始めた。
最初のスライドには、鮮やかな「赤」の棒グラフが大きく表示されていた。
事業部の今期の成果を誇らしげに示すものだ。
「部長、すみません。」
Kが遠慮がちに言った。
「そのグラフ、私にはどうも、くすんだ橙色に見えるのですが。」
S部長は眉をひそめた。
「何だと?これは赤だ。明確な達成を示す、勝利の赤色だ。」
M課長が目を凝らした。
「確かに、少しだけ、土色に近いような気もしますね。」
Kは困惑した。
隣のM課長も、同じように首を傾げている。
会議室の壁に貼られた企業理念の「青」いロゴ。
Kにはそれが薄紫に見えた。
しかしM課長には、濁った緑色に見えるという。
混乱は広がった。
手元の赤いペンは、ある者には濃い茶色に、別の者には錆びた銅色に映った。
青いファイルは、灰色に見えたり、ほとんど黒に見えたりした。
データや数字について議論するはずが、会議は色の認識を巡る激しい口論へと変わっていった。
「赤だ!」
「いや、オレンジです!」
「茶色だ!」
S部長は怒鳴った。
「いいか、諸君。これは光の加減だ。気のせいだ。集中しろ!現実を見ろ!」
しかし、そう叫べば叫ぶほど、室内の色はますます奇妙に、不安定に揺らいだ。
まるで、それぞれの心象風景が色となって現れているかのようだった。
その時、廊下から掃除員のオバさんが顔を覗かせた。
「あらあら、またおかしくなっちゃったのかい。」
オバさんは、首を傾げながら独り言のように呟いた。
「この部屋の照明ね、昔の偉い部長さんが『社員の柔軟な発想を促す』とか言って、特殊なフィルターを仕込ませたのよ。」
「微かに色が変わるようにね。結果はイマイチで、誰も気づかないまま、ずっとそのままだったんだけどねぇ。」
オバさんは笑った。
「まさか今になって、こんな風にハッキリ見え始めるなんてねぇ。」
S部長もM課長もKも、言葉を失った。
蛍光灯は以前と同じように唸っていた。
しかし、その光の下、彼らの目の前にある「現実」は、もう決して「客観的な」ものではなかった。
会議室の鮮やかな赤は、部長にとっては勝利の証しであり、若手にとっては抑圧の象徴。
その色は、半世紀の時を超え、ようやく彼らの胸の内を映し出していたのだ。
そして、誰もが、その客観性の喪失に、何故か郷愁を感じていた。
彼らは皆、会議室の色の混沌の中で、自分自身の真実の色を見つけたのだった。
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