光速の先

毎日ショートショート

K氏は毎朝、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。

枕元の情報端末が、すでに今日のニュースを要約し、彼の思考パターンに合わせた情報を選別して表示していた。

世界は活気に満ちていた。

いや、情報が活気に満ちていた。

 

画面には、地球の裏側で起きた些細な出来事から、宇宙の果ての新たな発見まで、あらゆるデータが光の粒子のように流れ去っていく。

K氏はそれを指でなぞり、知的好奇心を満たした。

しかし、知れば知るほど、もっと知りたいという渇望が湧き上がる。

それは満たされることのない飢えだった。

 

ある日、人類の情報社会に革命が訪れた。

「ネクサス」と名付けられたそのシステムは、光速を超える情報伝達を可能にした。

思考が文字になる前に、既に相手の脳に届いているようなものだ、と開発者は説明した。

物理的な距離も、時間的な遅延も、もはや存在しない。

情報は瞬時に、地球上のあらゆる場所に、そしてあらゆる意識へと伝播した。

 

人々は狂喜した。

K氏もまた、その恩恵を享受した。

彼は知りたいと思った瞬間に、その知識が脳内に直接流れ込むのを感じた。

哲学も、科学も、芸術も、歴史も、まるで自分の記憶であるかのように鮮明に理解できた。

個人の思考は、もはや「個人のもの」ではなかった。

それは「全体」に共有される、壮大な情報海の一部となったのだ。

 

しかし、数週間が経つと、奇妙な現象が起こり始めた。

誰もがすべてを知っているため、会話が成立しなくなった。

質問をする意味がない。

答えは既に誰もが知っているからだ。

新しいアイデアも生まれない。

思考が始まる前に、それが過去の無数の思考と完全に一致することを知ってしまうからだ。

 

活気に満ちていたはずの情報の海は、無数の波紋が重なり合い、やがて平坦で無機質な水面へと変わった。

人々は端末を閉じた。

誰もが、圧倒的な情報量に押し潰されていた。

「情報過多」という言葉では表現できない、存在そのものが情報に溶け込むような感覚だった。

 

そして、ネクサス開発チームから、最後の発表があった。

彼らは、この飽和状態から人類を救うため、最終段階の機能を実装したと告げた。

それは「情報遮断機能」だった。

ユーザーは、ネクサスを通じて、自らが望む情報の流入を完全に遮断できる。

それは、ある意味で、情報に対する究極の「光速突破」だった。

情報の速さを極めることで、逆に「無」に至る。

 

K氏は今朝も、目覚まし時計が鳴る前に目を覚ました。

枕元の情報端末は、真っ黒な画面を晒している。

ノイズ一つない、完全な静寂がそこにあった。

彼は清々しい気持ちで、ゆっくりと体を起こした。

そして、初めて、自分の頭の中に「新しい思考」が芽生えるのを感じた。

それは、遠い昔、ネクサスが発表される前の、あの懐かしい朝の感覚だった。

だが、その思考は彼だけのものであり、彼にとって、まさに「世界で唯一の情報」だったのだ。

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