パラドックス喫茶

毎日ショートショート

マスターB氏が経営する喫茶店「パラドックス」は、いつも人で賑わっていた。

朝から晩まで、珈琲豆を挽く香りが店内に満ち、会話の声が途切れることはない。

 

常連客のA氏は、店の片隅にある窓際の席が定位置だった。

彼は喧騒の中にありながら、誰にも邪魔されない静けさを好んだ。

毎日同じ時間に訪れ、同じブレンドコーヒーを注文した。

 

ある日のこと、A氏はいつものようにカップに口をつけた。

琥珀色の液体が喉を通るたび、体の芯から何かが溶け出すような感覚があった。

「気のせいか」

彼は首を傾げたが、特に気に留めることもなく、本を開いた。

 

数日後、A氏は自分の手のひらを見つめた。

指の輪郭が、わずかに透けているように見えた。

光の加減だろうか。

彼は隣の席に座る客の顔を見たが、誰も異変に気づいた様子はない。

マスターB氏も、忙しそうにカウンターで注文をさばいている。

 

その異変は、日を追うごとに顕著になった。

A氏の体は次第に半透明になり、店の背景に溶け込み始めた。

客が彼の隣の席に座ろうとして、何も無い空間に座り損ねることもあった。

しかし、誰一人として彼に「見えない」と声をかけることはなかった。

まるで、彼が最初からそこに存在しないかのように振る舞われた。

 

A氏は奇妙な安堵感を覚えた。

誰にも見られないという自由。

喧騒の中にいながら、完璧なプライベート空間を得た感覚。

彼はそれでも毎日、喫茶店「パラドックス」に通い続けた。

そして、いつものように窓際の席に座り、ブレンドコーヒーを注文した。

 

ある日、A氏の隣の席に、新顔のC子さんが座った。

彼女もまた、この店の常連になろうとしているらしかった。

C子さんもまた、同じブレンドコーヒーを注文し、静かに飲み始めた。

A氏は彼女の姿をじっと観察した。

数週間後、C子さんの指先もまた、微かに透け始めていた。

A氏は確信した。この現象は自分だけではない。

 

やがてA氏の姿は完全に消え去った。

そこにあるのは、窓際の空席と、その上の空間に漂う微かな珈琲の香りだけだった。

しかし、マスターB氏は彼の定位置に、いつものブレンドコーヒーを運んだ。

カップは空中に浮いているかのようだった。

 

そして数ヶ月後。

C子さんの姿もまた、完全に消え去った。

マスターB氏は、二つの空席に、二つのブレンドコーヒーを並べた。

彼は満足げに頷いた。

 

喫茶店「パラドックス」は今日も満席だ。

しかし、マスターB氏だけが知っていた。

本当に満席なのは、誰もいない空席の方だということを。

「最高の常連は、誰もその姿を見ることができない者たちなのだ」

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