昇華の箱

毎日ショートショート

キタムラ博士はモニターを眺めていた。

それは、真っ白な培養槽の内部を映し出す映像だ。

被験者シマダは、中で静かに横たわっていた。

 

この「精神昇華プログラム」は、人類が到達した究極の幸福とされていた。

肉体の限界を超え、意識を「高次元」へと拡張する。

志願者は後を絶たなかった。

 

シマダもその一人だ。

彼は、数週間前、何の変哲もない日常からこの箱に入った。

最初は退屈だっただろう。

閉鎖された空間。

均一な温度と湿度。

無味乾燥な栄養液。

ただ、そこで瞑想するだけだ。

 

キタムラ博士は、シマダの脳波をモニターした。

初期段階では、通常の瞑想と変わらない波形。

時折、睡眠状態に移行することもあった。

しかし、昨日から奇妙な変化が見られた。

 

脳波が、かつて観測されたことのない複雑なパターンを描き始めたのだ。

それは、まるで宇宙全体の情報を処理しているかのようだった。

 

シマダの体は、わずかに震えるだけだ。

しかし、その意識は、無限の宇宙を遊泳しているに違いない。

キタムラ博士はそう確信していた。

 

「シマダは今、何を見ているのだろうか」

キタムラ博士は呟いた。

その問いに、隣にいたアシスタントのナカムラが答えた。

「宇宙の真理。多次元の構造。あるいは、究極の自己ですかね」

 

彼らの間には、静かな興奮が漂っていた。

人類は、進化の次の段階に到達したのだ。

肉体を脱ぎ捨て、純粋な意識体として、高次元の世界へ。

それは痛みもなく、ただ静かに、内側から広がる感覚。

まさにユートピア的だ。

 

培養槽の維持費用は安く、エネルギー消費も極めて少ない。

シマダのような「昇華者」は、すでに世界中に数百万人に達していた。

彼らはもはや、社会の生産活動には関与しない。

ただ、静かに箱の中で意識を広げ続ける。

 

外部からは、微弱な生命反応と、異様なまでに安定した脳波が観測されるだけだった。

キタムラ博士は、その崇高な光景に感動を覚えた。

 

数十年が経過した。

キタムラ博士は、すっかり白髪になっていた。

培養槽の前に立つ彼の姿は、以前よりずっと小さく見えた。

昇華プログラムは、もはや当たり前の日常となっていた。

新たな志願者も減り、ほとんどの人間は、今の生活に満足していた。

 

「そろそろメンテナンスの時間ですよ、キタムラさん」

培養槽の定期点検に、タナカ技師がやってきた。

無機質な白い作業着を着て、彼は手際よく機器のチェックを始める。

 

「相変わらず、シマダさんは元気そうですね」

タナカ技師は、培養槽の外部パネルを軽く叩いた。

キタムラ博士は微笑んだ。

「ええ、彼は今、最高の体験をしているでしょう」

 

タナカ技師は、培養槽の底にある排水口のフィルターを開けた。

そこには、わずかに沈殿物が溜まっていた。

彼はそれを小さなビニール袋に集め、廃棄用のボックスに入れた。

 

「不思議なものです。こんな単純な構造で、人間が最高に満たされるとは」

タナカ技師は、培養槽の制御パネルを指差した。

「この回路図、これしかないんですよ。栄養液の循環と、微弱な電気信号のパターン。そして、単調な白色光」

 

彼は肩をすくめた。

「高次元とやらが、このシンプルな配線の組み合わせで成立するとは。まあ、幸せならそれでいいんですかね」

キタムラ博士は、タナカ技師の言葉を聞きながら、静かにモニターを見つめ続けた。

 

モニターには、相変わらず複雑極まりない、しかし永遠にループする脳波の波形が映し出されていた。

 

シマダが数十年見続けていた「高次元の宇宙」とは、培養槽の内部配線が自己形成した電気信号のパターンにすぎなかった。

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